ディスカバー・ニッケイ

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祖母がマンザナに (英語)

(英語) (収容所生活も)終わりごろ、祖母の死に際が近かったの。よくわからないけど、病後療養所のようなところで、祖父もそこにいました。男性と女性の部屋が別々にあったけれど、祖父は気にしてなくて、祖母とよくそこの広間にいたわ。祖母は水を飲みたがってても、誰からも水を与えてもらえないので、祖父が代わりにあげていたの。

なんとか母がリアリー神父に連絡を取ったの。もう数週間が経っていたかしら。ようやく祖母をマンザナに帰すことができたの。戻ったのは夜中で、そのときには、祖母は今にも死んでしまいそうな様子だったわ。病院に連れて行って、祖母は目を何度か開いたけど、それだけだった。

それから看護婦のアキタさんが、祖母の身体の向きを変えら、床擦れの跡が見えたわ。背中や、お尻の部分に。恐ろしい跡だった。そしてアキタさんは、首を横に振って、「なんてこと。全く世話をしてもらっていなかったのね」と言ったの。彼女は大きなドーナツ型のクッションで対処してくれたけど、祖母は朝に亡くなってしまった。痛みを感じるだけだったわ。


カリフォルニア州 強制収容所 家族 祖父 祖父母 マンザナー強制収容所 両親 アメリカ合衆国 第二次世界大戦 第二次世界大戦下の収容所

日付: 2011年5月24日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: ジョン・エサキ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

スミコ・コザワ氏は、1916年ロサンゼルス生まれ。五人兄弟の長女であり、第二次世界大戦前は日本で3年間、琴や生け花、茶道を学ぶ。家族が経営する、シルバーレイクの「トーキョー・フローリスト」は、新鮮な花々を適当な値段で買えるためハリウッドの地域で人気だった。スミコ氏はお店を手伝う中で、有名な無声映画スター、グレタ・ガルボを含む多くの人々に出会う機会を得る。日本が真珠湾を爆撃すると、スミコ氏と家族はマンザナへと送られる。スミコ氏はそこで家族、祖父、妹の世話をした。コザワ氏は、2016年12月、100歳で亡くなりました。(2016年12月)

ジョージ・カツミ・ユザワ

JACLの全米書記マイク・マサオカの1942年のスピーチへの反応(英語)

戦後ニューヨーク市に移住した二世の花屋。日系アメリカ人の公民権運動で活躍。(1915-2011年)

クリスティー・ヤマグチ

祖父母の閉ざされた過去 (英語)

プロフィギュアスケート選手。オリンピック金メダリスト。(1971年生)

ジーン・アクツ

「国家への忠義に関する質問」に対する葛藤 (英語)

徴兵忌避者(1925年生)

ウィリアム・ホウリ

収容所の中での教育(英語)

政治活動家(1927-2010)

ジョニー・モートン

祖母との会話 (英語)

プロアメリカンフットボール選手。(1971年生)

ジョージ・ヤマダ

真珠湾攻撃後に解雇された日系アメリカ人の鉄道労働者たち (英語)

初生雛鑑別師 (1923年生)

ジョージ・ヤマダ

真珠湾攻撃後に映画館で受けた人種差別 (英語)

初生雛鑑別師 (1923年生)

チエ・トミヒロ

話すことを阻んだ恥の意識 (日本語)

JACLシカゴ支部の補償委員会の委員長

ロベルト・ヒロセ

日本の習慣(スペイン語)

二世日系チリ人、ビジネスマン(1950年生)

ジョージ・ヨシダ

ジャズとの出会い (英語)

音楽家 (1922年)

ジョージ・ヨシダ

それでも、日本人 (英語)

音楽家 (1922年)

キャサリン・ドイ・トッド

収容所体験の影響 (英語)

アジア系アメリカ人女性最初の判事(1942年生)

ポーラ・オヨス・ハットリ

祖父との思い出 (スペイン語)

日系アルゼンチン人、三世

ポーラ・オヨス・ハットリ

祖父を理解するために日本語を勉強 (スペイン語)

日系アルゼンチン人、三世

外間良広

人生でもっとも印象に残っている日

沖縄出身、一世アルゼンチン人 (1917年生)