ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/325/

1952年、戦後まもない日本での不自由な生活 (英語)

(英語) 初めて日本へ行ったのは、僕らが結婚した後でした。一緒に日本へ行って、その2日後には僕はキャンプに参加しなければならなかったんです。東京から電車で26時間かけてジャイアンツのキャンプ地、宮崎に行きました。

妻のジェーンは40日間、たった1人で東京で過ごしたんです。当時は...今なら良いホテルがあるだろうし、問題ないないんだろうけど、僕らが最初に行った1952年当時は、そういうホテルはありませんでしたからね。食べるものもそれほどない時代で、サラダにするような野菜にしても、とても食べられたようなものじゃなかったんです。だからね、そういうものは当然食べたくないし、自分達で何とかしようと頑張りました。

来日1年目の夏に妻は妊娠しましてね。エアコンを買うようなお金はないし、出かけて行って大きい氷の塊と鍋を買ってきたんです。それをベッドのすぐそばに置いて、扇風機の風を当てて部屋の中を涼しくしましたよ。でも氷は30分くらいですっかり溶けてしまうんです。冬の間も暖房がなかったので、とても寒かったですよ。


野球 日本

日付: 2003年12月16日

場所: 米国、ハワイ州

インタビュアー: アート・ハンセン、ジョン・エサキ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

ウォーリー・ヨナミネ(与那嶺要)氏は1925年ハワイのマウイ島で生まれました。彼がスポーツ選手として世間で初めて注目を浴びたのは、1944年オワフ島に移った後、ホノルル市のアメリカンフットボール大会でファーリントン高校を初優勝に導いたときでした。第2次世界大戦後には、サンフランシスコ・フォーティナイナーズのランニングバックとしてプロ契約を結び、アジア系アメリカ人初の快挙となりました。

しかし、ヨナミネはフットボールでの怪我をきっかけに野球への転向を決意しました。パシフィックコースト・リーグ(マイナーリーグ)のサンフランシスコ・シールズと契約中、監督から日本で野球をするよう勧められ、1951年、戦後日本でプレイする初のアメリカ人として読売ジャイアンツに入団しました。通算打率3割を越える記録を残したヨナミネは、日本の野球史上最も優れた先導的なバッターとしても知られ、首位打者を3度獲得、1957年にはセントラルリーグの最優秀選手賞(MVP)にも選ばれました。

現役引退後は、コーチ、スコアラー、監督として功績を残し、38年間に及ぶ野球人生に幕を閉じました。激しいスライディング、セーフティーバント(バントヒット)、フライ球のダイビングキャッチなど、日本プロ野球界に本場アメリカ仕込みのを持ち込んだことで評価され、初めはファンの野次の的であったが、後に高い人気を集め、1990年には日本野球界の殿堂入りを果たしました。 (2003年12月16日)

天野美代子

天野芳太郎の日本でのビジネス

天野博物館館長 (1929年生)

田岡 功

日本の若者に対して感じること

パラグアイ駐日大使(1943年生)

マーガレット・ナルミ

野茂のリスク(英語)

NHKコスモメディアアメリカ プロデューサー

マーガレット・ナルミ

1995年の野茂旋風

NHKコスモメディアアメリカ プロデューサー

ジーン・玻満子・シュナイダー

アメリカへの移住して良かったこと

戦争花嫁(1925年生)

上杉 武夫

ニューヨークで学んだ後、日本に帰国(英語)

一世のランドスケープアーキテクト(1940~2016年)

パウロ・イサム・ヒラノ

大泉とブラジルの日系コミュニティとの違い

(1979年生)群馬県大泉町在住の日系ブラジル人三世。デザイン事務所経営。

アントニオ・シンキチ・シコタ

日本に住むメリット(ポルトガル語)

日本でブラジルの商品店を営む日系ブラジル人(1962年生)

アントニオ・シンキチ・シコタ

大泉町の日系ブラジル人への政府の支援(ポルトガル語)

日本でブラジルの商品店を営む日系ブラジル人(1962年生)

アントニオ・シンキチ・シコタ

日本の日系コミュニティの将来(ポルトガル語)

日本でブラジルの商品店を営む日系ブラジル人(1962年生)

サワコ・アシザワ・ウチムラ

いくつかの生い立ちを持ったユニークなアイデンティティ(英語)

フィリピン生まれの引揚者、後にアメリカに移民(1938年生)

レイコ・T・サカタ

親の結婚

(1939年生まれ) 戦時中に家族とともに自発的にユタ州ソルトレイクシティに移住した実業家。