ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/324/

アメリカ式の攻撃的野球を日本へ (英語)

(英語) 私が日本へ行った時、日本人(の野球)は攻撃的ではなかったですね。彼らはゴロを打って一塁へ走った、といってもいい。それを私が全面的に変えたんです。私がまだ日本にいたころ、あるところでスピーチをした際、昔からの選手が私のところにきて、「君は日本の野球を変えた」と話してくれました。というのも、私は日本にいたころ真のアメリカ的スタイルの野球をしてましたからね。ダブルプレーって知ってますよね。私はダブルプレーを阻止しました。それに僕はよくベンチからセンター・フィールドまでよく走って出て行って、走って戻ってきましたのを、みんな見てました。日本人(の選手)はすごくゆっくりだったんですよ。


野球

日付: 2003年12月16日

場所: 米国、ハワイ州

インタビュアー: アート・ハンセン、ジョン・エサキ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

ウォーリー・ヨナミネ(与那嶺要)氏は1925年ハワイのマウイ島で生まれました。彼がスポーツ選手として世間で初めて注目を浴びたのは、1944年オワフ島に移った後、ホノルル市のアメリカンフットボール大会でファーリントン高校を初優勝に導いたときでした。第2次世界大戦後には、サンフランシスコ・フォーティナイナーズのランニングバックとしてプロ契約を結び、アジア系アメリカ人初の快挙となりました。

しかし、ヨナミネはフットボールでの怪我をきっかけに野球への転向を決意しました。パシフィックコースト・リーグ(マイナーリーグ)のサンフランシスコ・シールズと契約中、監督から日本で野球をするよう勧められ、1951年、戦後日本でプレイする初のアメリカ人として読売ジャイアンツに入団しました。通算打率3割を越える記録を残したヨナミネは、日本の野球史上最も優れた先導的なバッターとしても知られ、首位打者を3度獲得、1957年にはセントラルリーグの最優秀選手賞(MVP)にも選ばれました。

現役引退後は、コーチ、スコアラー、監督として功績を残し、38年間に及ぶ野球人生に幕を閉じました。激しいスライディング、セーフティーバント(バントヒット)、フライ球のダイビングキャッチなど、日本プロ野球界に本場アメリカ仕込みのを持ち込んだことで評価され、初めはファンの野次の的であったが、後に高い人気を集め、1990年には日本野球界の殿堂入りを果たしました。 (2003年12月16日)

アート・シバヤマ

アメリカ人二世と帰米との野球ゲーム(英語)

ペルー生まれの二世。第二次大戦中アメリカへ連行。(1930-2018)

マーガレット・ナルミ

野茂の記者会見 (英語)

NHKコスモメディアアメリカ プロデューサー

ファン・アルベルト・松本

日系コミュニティ内で人気のスポーツ

日本在住の日系アルゼンチン人、二世(1962年生)