セルヒオ・エルナンデス・ガリンド

(Sergio Hernández Galindo)

セルヒオ・エルナンデス・ガリンド氏は、コレヒオ・デ・メヒコで日本研究を専攻し、卒業した。メキシコやラテンアメリカ諸国への日本人移住について多くの記事や書籍を刊行している。

最近の刊行物としてLos que vinieron de Nagano. Una migración japonesa a México [長野県からやってきた、メキシコへの日本人移住]  (2015)がある。この本には、戦前・戦後メキシコに移住した長野県出身者のことが記述されている。また、La guerra contra los japoneses en México. Kiso Tsuru y Masao Imuro, migrantes vigilados(メキシコの日本人に対する戦争。都留きそと飯室まさおは、監視対象の移住者) という作品では、1941年の真珠湾攻撃による日本とアメリカとの戦争中、日系社会がどのような状況にあったかを描いている。

自身の研究について、イタリア、チリ、ペルー及びアルゼンチンの大学で講演し、日本では神奈川県の外国人専門家のメンバーとして、または日本財団の奨学生として横浜国立大学に留学した。現在、メキシコの国立文化人類学・歴史学研究所の歴史研究部の教育兼研究者である。

(2016年4月更新)

culture ja es

渡辺りえのバイオリンと深層のメキシコ

渡辺りえが世界的に著名なバイオリニスト、黒沼ユリ子氏に出会ったのは彼女がまだ5歳の時だった。当時、黒沼氏はソリストとして世界各地の交響楽団と共演し、コンサートツアーで祖国、日本も訪れていた。その黒沼氏がチェコフィルとの共演で山口市を訪れた時、幼くもバイオリンを弾いていたりえが、花束ガールとしてコンサートでソリストに花束を渡す大役を仰せつかったのだ。

この時、彼女は幸運にも黒沼氏に演奏を聴いてもらえる機会を与えられた。名バイオリニストは幼い少女の演奏に大層感心した様子で、頭を撫でながら「こんなに小さいのにとても上手に弾いているわね。」と言って小さな人形をプレゼントしてくれた。それはメキシコから遥々持って来られたトウモロコシの葉で丁寧に作られたハンドメイドの女の子の人形だった。これがりえの黒沼氏と遠く離れた国であるメキシコとの最初の出会いである。そしてこの出来事こそがその後、彼女の人生を大きく変えるきっかけとなったのだ。

当時、黒沼氏はメキシコ在住であった。彼女はチェコ共和国のプラハ音楽院にて音楽留学をした経歴をもつが、その時代に知り合った、後に夫となる彼はメキシコ人で優秀な文化人類学の留学生であった。彼女は留学後 ...

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1946年:クリスタルシティー収容所のお正月

1945年8月、日本とアメリカは終戦を迎えたが、ラテンアメリカ諸国に移民していた何十万人という日本人移住者に自由と平和がすぐに戻ってきたわけではない。特に強制的に収容所に送られたアメリカの十数万人の日系人たちにとって、不安は尽きなかった。戦争が終結してそのまま日本に送還されるのか、定住先で生まれた子供たちは住み慣れた収容前の居住地に戻れるのか、不安が募る毎日を過ごしていた。

1941年12月の開戦とともに、アメリカ政府はアメリカ在住の日系人12万人を収容できる施設をスピーディーに確保、建設した。また、この措置の一環としてラテンアメリカ諸国にいた「非常に危険」な日本人もアメリカ本土に移送し、収容することを決定した。

その結果、南米から約2,000人の日本人移住者がアメリカの収容所に送られた。その中でもっとも多かったのがペルー在住の日本人であり、その数女性も子供も含めて約1,800人にのぼった。そのほとんどが拉致に近い方法で拘束され、1942年4月、船でアメリカに移送された ...

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フリオ・ミスミ・ゲレロ=コヒマの多様なルーツ:「ソン・ハローチョ」音楽家の日系人 — その2

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フリオ・ミスミ・ゲレロ=コヒマ(Julio Mizzumi GUERRERO KOJIMA)は、ベラクルスの民族音楽「ソン・ハローチョ(son jarocho)」や「ファンダンゴ(fandango)1」の音楽家としてとても高い評価を得ている。ハラナ(小型のギター)奏者であるこの日系音楽家に対しての評価は、生まれ育った土地の音楽や伝統を自分のアイデンティティの一つとして受け入れ、音楽を通してそれを徐々に表現していくことで長年かけて培われたものである ...

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フリオ・ミスミ・ゲレロ=コヒマの多様なルーツ:「ソン・ハローチョ」音楽家の日系人 ― その1

メキシコの伝統的民俗音楽家でもあり幼稚園の先生でもあるフリオ・ミスミ・ゲレロ=コヒマ(Julio Mizumi GUERRERO KOJIMA)は、ベラクルス州の「リオ・デラス・マリポーサス(蝶の河)」として知られているパパロアパン川付近にある小さな村オタティトラン(Otatitlán, 原住民ナワトル語で「竹の場所」という意味)で、1970年に生まれた日系人である。フリオが育った村オタティトランは、様々な異なった文化が共存する文化的にとても豊かな土地で、様々な風が吹くのでソタベントと呼ばれている ...

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日米戦争とアメリカ日本人移住者の迫害

1941年12月7日の日本による真珠湾攻撃は日米開戦を意味しただけではなく、アメリカ大陸の各国に移住していた日本人を当事者として第二次世界大戦に巻き込んだ。

その時点で数十年も前から定住していた日本人移住者は、アメリカをはじめとするいくつかの国々で、日本の帝国陸軍の一部(先遣隊、または諜報員)としてみなされ、日本軍による侵略を防ぐ手段として隔離(拘束)または追放もしくは送還された。親の国籍(日本)と同じでない子弟の日系二世も、その国で生まれ育ったにもかかわらず、「適性外国人」に指定された。太平洋戦争は、こうした日本人移住者の迫害と人種的憎悪を助長したといわれているが、実はそうした状況は日本人移民が海外渡航しはじめた19世紀末から見られていた。

日本からアメリカ大陸には80万人の移民が仕事と新しい未来を求めて移住した。農民、鉱山労働者、漁師、商人 ...

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