ディスカバー・ニッケイ

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造園業から園芸場経営へ(英語)

(英語)僕は、庭師見習いとして3日間働きました。どういうことかというと、3人の庭師の友人に1日ずつ付いて仕事を見せてもらいました。3日間の見習いで、即席の庭師になりました。そして、ガーデングローブ園芸場でお客さんを紹介してもらい、週3日、庭師の仕事を始めました。その後、担当する庭が自然に増えていきました。働き始めた当初はすごく怖かったですよ。3日間友人の仕事を見ていただけで、経験は皆無でしたから。

そして、週3日は庭師の仕事を継続し、経費や食費、生活費は賄えるようになりました。残りの4日間は、パンジーの栽培を始めるための庭の掃除や準備に当てました。そんな風に仕事をするようになり、3日間は庭師として、4日間は自分の庭で働きました。そして段階的に栽培を始め、12月にパンジーが開花し、見栄えがするようなパッケージに梱包しました。店に置いてもらうものは花かごに入れました。この仕事が忙しくなってきたので、庭師の仕事は辞めました。庭師を辞めてからは、一度も戻っていません。辞めた後は、パンジーの栽培に集中しました。パンジーを育てている間、儲けを狙って他の植物も育てようとしましたが、うまくいきませんでした。利益が出たのはパンジーだけでした。そしてそのお金で苗床の用具を買い、しだいに園芸場らしくなっていきました。


農業 ビジネス 経済学 ガーデニング 世代 園芸 移民 移住 (immigration) 一世 日本 経営 移住 (migration) 育苗業者(園芸) 戦後 新一世 アメリカ合衆国 第二次世界大戦

日付: 2012年2月2日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: クリス・コマイ、ジョン・エサキ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

ハルノリ・オダさんは、北海道で生まれ育ちましたが、第二次世界大戦後、日本を訪れていた日系二世の女性と出会い、結婚し、米国に移り住みました。オダさんはアメリカを嫌悪していましたが、妻のミチコさんに、アメリカの方がより多くの成功の機会があると説得され、そのチャンスにかけてみることにしました。英語力には限界があったものの、オダさんは、園芸業で身を起こすことに成功しました。彼は、この仕事であれば、自分の能力で最大限の成功を手にすることができるだろうと考えたのです。最終的に、オダさんは自らの園芸場の経営を始め、事業を拡大し、その後、オレンジ郡で不動産開発業者として大成しました。オダ氏は、2016年12月14日、91歳で亡くなりました。(2016年12月)

ロベルト・ヒロセ

少数の日本人家族と共に育って(スペイン語)

二世日系チリ人、ビジネスマン(1950年生)

ジョン・ナカ

徴兵回避のためアメリカへ帰国(英語)

日系アメリカ人二世、盆栽マスター(1914-2004年)

ルー・キタシマ

庭師の技術を学ぶ(英語)

三世庭師・造園士

ルー・キタシマ

庭師として成功するためには(英語)

三世庭師・造園士

ルー・キタシマ

日本庭園の自然美(英語)

三世庭師・造園士

ルー・キタシマ

庭師の仕事を楽しむ(英語)

三世庭師・造園士

ルー・キタシマ

英国で日本庭園をデザイン(英語)

三世庭師・造園士

ルー・キタシマ

日本庭園の要(英語)

三世庭師・造園士

ルー・キタシマ

日本庭園にその土地の植物を採用(英語)

三世庭師・造園士

ルー・キタシマ

クライアントの好みに合わせた日本庭園(英語)

三世庭師・造園士

ルー・キタシマ

南カリフォルニアの庭師の変化(英語)

三世庭師・造園士

ルー・キタシマ

英国で庭師として働くことの難しさ(英語)

三世庭師・造園士

ポーラ・オヨス・ハットリ

祖父のアルゼンチン移住 (スペイン語)

日系アルゼンチン人、三世

外間良広

日本からアルゼンチンへ

沖縄出身、一世アルゼンチン人 (1917年生)

高木一臣

日本を離れ、いざアルゼンチンへ(スペイン語)

『らぷらた報知』ジャーナリスト (1925-2014年)