ラウラ・ホンダ・ハセガワ

(Laura Honda-Hasegawa)

1947年ブラジル・サンパウロ市で生まれる。2009年まで教育の分野に従事していたが、その後は、一番情熱がもてる執筆活動に専念している。彼女の作品にはエッセイ、短編、詩、小説などがあり、どれも日系のレンズを通して描かれている。

(2018年9月 更新)

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デカセギ・ストーリー

第三十四話 コロナによる突然の帰国

日本へ行ったのは1997年。姉は26歳、わたしは18歳でした。姉のご主人のマサオさんは半年前から豊橋市の工場で働いていたので、私たちはバラバラにならないように同じ町で仕事を探し、ようやく姉はパン屋、わたしはブラジルの商品を扱う店で働くことになりました。

月日が経ち、2008年に姉夫婦は2人の子供を連れてブラジルへ戻りました。その頃、両親はサンパウロ郊外に住んでいましたが、5年後に父が亡くなり、母は姉の家族と暮らすようになりました。

姉たちは大きな二階建ての家を手に入れ、一階をリフォームして雑貨店を開きました。姉夫婦は雑貨屋で生計を立て、母は二階で孫の面倒を見ながら家事を手伝い、皆、忙しい日々を送っていました。

一方、わたしはブラジルの商品を扱う店で働きながら美容師の資格を取りました。その後、浜松市に引越し、ビューティーサロンで働くようになりました。

28歳のとき ...

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懐かしい日本の歌との再会

ステイホーム中、友人と日本のテレビ番組や日本の歌謡曲のビデオなどのやり取りを良くするようになりました。私のスマートフォンに届いた最初の動画は「上を向いて歩こう」でした。私は坂本九の歌声を聴き、とても懐かしく感じました。なぜなら、この歌は私が2001年から2007年まで司会を続けたラジオ番組のテーマソングだったからです。毎朝、あの美しいメロディと歌詞をバックに「オハヨウ・ボンディア」と、視聴者に挨拶をし、数々の日本の歌を紹介していました。

そして私は、この有名な曲を、日本の人気歌手16名が自宅で歌い、それをつなぎ合わせたものがネットで反響を呼んでいるのを知りました。タイトルは、「日本を元気に!みんな歌って ...

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パンデミックのさなかに見たコミュニティの絆 - その1

ロンドリーナでの新しい生活

生まれ育ったサンパウロを離れ、パラナ州ロンドリーナ市へ移る決心をしたのはちょうど1年前でした。退職して19年が経ち、私ももう73歳。いろいろと考えた結果でした。

ロンドリーナに引っ越すことにした理由は、私のルーツが辿れる場所だからです。ここには母方の祖父が汗を流して作り上げた農園が「Jardim Honda」という都市区画になって残っていますし、母が青春を過ごし、結婚後両親が暮らし始めた町でもあります。親戚は少ないのですが、母方の叔父の奥さんのハツコさんと2人のいとこも住んでいます。

今年の1月から新型コロナウイルスのニュースを耳にしていましたが、それは遥か遠い国々で感染拡大の問題だと思っていました。2月26日、私は何の不安もなくロンドリーナへ転居し、新しい生活を始めました。

しかし、引っ越しから2週間後、新型コロナウイルスによる感染症対策として突然ステイホームするよう命令が出されました。部屋のリフォームが始まったばかりで ...

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デカセギ・ストーリー

第三十三話 「カレンが日本へ戻らないって」

高校生だったトシエは、同級生のイヴァンと結婚し、その5ヶ月後に双子の赤ちゃんを産んだ。当時19才だったイヴァンは大学進学を諦め、スーパーのレジ係、自動車部品店店員、タクシードライバーなど、職を転々とした。しかし、家計は苦しく、家族を残して日本へ出稼ぎに行った。

双子のカレンとカリナはすくすくと育ち、3才になった。家族全員で一緒に暮らすため、子供を連れトシエも日本へ行くことにした。今まで一度も働いたことがなかったトシエだったが、夫と同じ工場で働くことになった。自分たちが働いている間、娘たちの面倒を見てもらうため、父親が経営する飲食店を手伝っていた母にも一緒に日本へ来てもらうことにした。

そしてその2年半後、トシエは男の子を出産した。しかし、産後の肥立ちが悪く、退院が遅くなった ...

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デカセギ・ストーリー

第三十二話 たった5ヵ月のデカセギ生活

マリには子供がいなかったため、夫を早く亡くしてからは仕事一筋だった。

専門学校卒業後、小学校の教員として働きながら大学を終えた。大学で知り合った夫は、「多くの子供に勉強の楽しさを知ってもらいたい」と、マリと同じ志を持っていた。二人は結婚し、その後マリは、隣町の中学校で数学を教えながら、夫が経営する塾を手伝った。

11年後、夫は交通事故で亡くなってしまった。「今からひとりで子供たちに教えていけるだろうか」とマリは悩んだ。

先生を続けるのをためらっていると、「何を言ってるの?小さい頃から本を読むのが大好きで、近所の子供を集めて『学校ごっこ』で遊んでいた子が、大人になって弱音を吐いている場合ではないでしょう?」と、母親は勇気付けてくれ ...

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