ラウラ・ホンダ・ハセガワ

(Laura Honda-Hasegawa)

1947年ブラジル・サンパウロ市で生まれる。2009年まで教育の分野に従事していたが、その後は、一番情熱がもてる執筆活動に専念している。彼女の作品にはエッセイ、短編、詩、小説などがあり、どれも日系のレンズを通して描かれている。

(2018年9月 更新)

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デカセギ・ストーリー

第四十話 日本を目指す4姉妹

内山家の4姉妹はいつも一緒だった。子供のころは、おばあちゃんの庭でままごと遊び、思春期には映画やコンサート、旅行へと、いつも一緒だった。 しかし、大人になると、それぞれが別の道を選び、離れて行った。 長女のユキは大手銀行の公募に合格し、有望なキャリアを積み上げていった。 次女のユリは仕事場で知り合ったカナダ人と結婚し、バンクーバーへ渡った。 三女のマリは幼なじみのケンちゃんと結婚し、二人は日本へ出稼ぎに行った。 四女のミナは大学卒業後、ブラジリアの新聞社に勤めていた。 そして、5年ぶりにマリは里帰りした。「小さいときから日焼けしてたけど、今は色白になったね!」「ジンーズしか履かなかった活発な女の子が、今はレディーに変身した!」「もう日本語も話せるんだ!」「日本はすごい!人を見違えるほど変えてしまう!」と、皆が驚いた。 すると、たまたま実家に戻っていたミナが言った「日本は特別な国だよね。私も日本で暮らしてみたい!」 ミナは何度も海外へ旅行したことはあるが、日本へは一度も行ったことがなかった。学生のころ、ジャーナリストになりたいと話すと、「記事は日本語で書くのでしょう?」と言われ、「日本語は分かりません!ブラジル人ですから」と、答えていた。 しかし祖母はよく言っていた。「顔はルーツを語る」と。最近では「いくらブラジルで生まれても、顔は日本人だから、日本のことや日本語…

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デカセギ・ストーリー

第三十九話(後編) 日本がわたしにくれた物

前編を読む >> その日の午後6時頃に、スミエのお母さんは仕事から戻った。「ただいま!ねぇ、どんなもの買ってきたの?今のベビー服ってカワイイでしょう?」と言いながら、急いでスーパーの買い物をキッチンに置きに行った。 しかし返事がなかった。二階に上がると、スミエがベッドで気を失って倒れていた。 翌日、スミエは病室で目覚めた。お母さんの顔を見ると「ここはどこ?何があったの?」と、不安そうに尋ねた。スミエは気分が悪くなり、横になったところまでしか覚えていなかった。 母親は心配そうに、娘の顔を覗いて手を握りしめた。スミエに流産したことを伝えた。スミエは、深い絶望と悲しみのあまりに、無反応だった。母は何を言っても虚しいだけだと思い、スミエを静かに見守った。想像はしていたが、実際、とても辛かった。 流産は、妊娠初期によく起こることだ。しかもスミエの血圧は高く、一人で帰省するプレッシャーもあったのだろう。医師は、流産したことは、絶対に彼女のせいではないと、家族に説明した。 退院後、スミエは部屋に閉じこもり、ぼんやりと日々を過ごしていた。流産の知らせを聞いた夫のマルコは、慌てて日本から駆け付けたが、スミエは部屋から一歩も出ようとしなかった。「疲れているから、ここにじっとしていたい」と。 結局、スミエの両親とマルコが今後について話し合った。4か月後の2020年3月、マルコが会社から1…

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デカセギ・ストーリー

第三十九話(前編) 日本がわたしにくれた物

マルコのお父さんは最愛の妻を病気で亡くしたため、一人息子を両親に預け、サンパウロへ出稼ぎに行った。3年たって、ようやく仕事も住まいも安定したので、息子のマルコを呼び寄せた。 マルコは11歳、大好きなパパー1と一緒に暮らすのが夢の夢だった! 毎朝早起きして、お父さんは仕事へ、マルコは学校へと、楽しい日々の繰り返しだった。なかでも、マルコの一番の楽しみは、週末に、お父さんの仕事場を訪ねることだった。 場所は「サンパウロの東洋人街」として知られるリベルダーデ区の中心街にあった軽食堂だった。マルコはそこで働くお父さんを誇らしく見ていた。イタリア系のパパーは、ブラジルのパステル2に豆腐とシメジの具を入れ、それを看板メニューにして店の売り上げを大きく伸ばしたのだ。 中学卒業後、マルコは薬局でバイトをしながら、夜間高校へ進んだ。リベルーデ区にも通い続け、日本のことにますます興味を持つようになった。ショーウィンドーに輝く刀や日本語教室の案内のビラを見ながら、本屋で見る漫画を立ち読みし、サムライ映画をビデオレンタル。「そうだ。日本語が話せたら、さぞかし、面白いだろうなぁ!」と、さっそく日本語教室に通い始めた。 そこで知り合ったのがスミエだった。彼女はマルコより2歳年上で、美容院で働いていた。夢は日本で美容室を持つことだった「ブラジル人が多い町で、みんなをキレイにしてお金をたくさん儲けるの…

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第三十八話 わたしの大好きなファミリー

わたしの名前はミツノ、11歳の女の子です。パパは日系ペルー人で、ママは日系ブラジル人です。わたしは日本で生まれて、ママが大好きなおばあちゃんの名前「光乃」を付けてもらいました。 ママは21歳のとき、2歳のお姉ちゃんのモニカをブラジルの光乃おばあちゃんに預けて、お姉ちゃんのパパのリカルドさんと日本へ来ました。でも、リカルドさんは日本の生活に慣れずに、半年も経たないうちにブラジルへ戻ってしまいました。 ママはパン屋さんで1年ほど働いてからブラジルへ戻って、リカルドさんと話し合ったようですが、結局、ふたりは離婚してしまいました。 それから、ママは、モニカがお世話になっていた光乃おばあちゃんの家で一緒に暮らし始めました。でも、ブラジルでは仕事がなかなか見つからず、また日本へ来ることにしました。今度は4歳のモニカを連れて、頑張るしかなかったのです。 ママはエライ!モニカを保育園に8時から17時まで預けて、昼間は以前働いていたパン屋さんで働き、夜は家でブラジル料理のマルミッタ1を作って、ブラジル人が多い寮に配達していました。とても忙しかったと思います。 モニカが中学生になると、ママは新しい仕事を始めました。日本料理のレストランでした。外国人、主にブラジル人やペルー人のお客さんが増えてきたので、オーナーはその人たちのふるさとの味を出したいと考え、ママを誘ったのです。 ママは、光乃お…

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デカセギ・ストーリー

第三十七話 コロナなんかに負けるもんか!

1998年、僕は5歳のとき、両親に連れられて日本へ行きました。それまで父は薬局に勤め、母はスーパーで働いていました。しかし、生活がぎりぎりだったので、もっと安定した暮らしを送るために日本へ出稼ぎに行くことを決めました。 最初、ふたりは同じ工場で働いていましたが、日系人で日本語が話せた父は、本社へ移動させられました。まもなくして、母は工場を辞め、ブラジル製品を扱う店で働くようになりました。 僕は、保育園から中学校を卒業するまで日本に居ました。振り返って見ると、人生で一番楽しい時期でした。先生方とクラスメートのお陰で、僕は日本語を話せるようになり、家でも日本語を使っていました。スペイン系の母に日本語を教えたのは父ではなく、僕でした!弟は僕と違って、日本で生まれたのに、日本語が話せません。 弟が日本の学校に馴染めなかったこと、そして、リーマンショックの影響もあり、両親はブラジルで暮らすのがベストだと考え、2008年に私たちはブラジルに戻りました。 母の実家があるサンパウロ州カンピーナスで新しい生活が始まりました。商売に向いていた祖父の血を引いた父は「スーパーシマダ」という大きな店を構えました。未だに「スーパーシマダ」の「スーパー」は「スーパーマーケット」からか「スーパーマンの島田」から由来するのか分かりません。 商売は、徐々に規模が大きくなり、5年後には、店内に日本食の食堂が…

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