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ニッケイ物語8 — ニッケイ・ヒーロー:私たちの模範となり、誇りを与えてくれる人

私のヒーロー:セツタロウ・ハセガワ

第二次世界大戦の長い影は、私が生まれた1960年代前半頃には薄れつつありました。1950年代から60年代にかけて、オーストラリアには次々と移民が押し寄せましたが、日本人をはじめとするアジア人はほとんどいませんでした。白豪主義が主流の時代、肌の色から判断すれば私は白人として通りましたが、私の名字は日本名でした。

私の父、レイモンド・タロウ・ハセガワは、レオ・タケシ・ハセガワの息子で、オーストラリア連邦成立前、白豪(主義)として知られることになる移住制限法以前の1897年に日本からオーストラリアに移住したセツタロウ・ハセガワ(STハセガワ)の孫です。

私は、STハセガワ――彼はたびたびこう署名していました――に会ったことはありません。彼は1952年に81歳という高齢で亡くなりました。私は、STハセガワが北海道の小樽生まれで、学校教員で長男だったということは知っています。彼の世代の多くがそうだったように、江戸時代が終わり明治時代の始まりと共に訪れた移動の自由の機会を利用し、STハセガワは1897年に山城丸でオーストラリアに到着しました。そして、メルボルンの家庭で雑役夫として働き、英語を学びました。その後雇い主の元を離れ、ジーロング市で独立するまで洗濯屋で働きました。1905年までにSTハセガワは結婚し、3人の息子のうち長男が生まれています。

ある意味、結婚して3人の子の親となったことから彼は日本には帰国せず、亡くなるまでオーストラリアに留まったのではないかと思います。長男だった彼は、伝統に従い家族の面倒をみることが期待されていたはずですが、1911年までに彼は3人の男児の父となり、1914年にはシングルファザーとなっていました。 

レオ・タケシ、モト・コウゾウ、ジョーは、全員ハセガワ姓で生まれましたが、この姓のまま亡くなったのは1人だけでした。ジーロングでのハセガワ家の生活は、第二次世界大戦が始まるまで概ね順調だったようです。全てが変わったのは、真珠湾攻撃の翌日以降、オーストラリアが日本に宣戦布告し、STハセガワが逮捕された時でした。その時レオ・タケシは陸軍に入隊し、モト・コウゾウはメルボルンで働き、ジョーは会計士をしていました。

レオ・タケシの8人の子どもたちは、STハセガワと共に彼が1920年代に購入した家に住んでいました。第二次世界大戦は困難な時代で、アジア系の外見に加えてハセガワという姓は、全員ではないものの多くの人々の最悪の部分をあらわにしました。おばのマツは戦時中10代で、日系人だったために石を投げられたといいます。メルボルンに住んでいたモト・コウゾウはうんざりするほど“ジャップ”と呼ばれ、長く音信不通だった母の旧姓、コールに家族と共に改姓しました。

当時70代だったSTハセガワは、温情措置によってタトゥラから早期釈放され、制約はあったものの戦争が終わるまで家族と共にリトル・ライリー通りに住むことが許されました。

現在私たちは、テレビを見たり音楽を聴いたりネットサーフィンをしたり旅行をしたりすることができますが、テレビやインターネットのない時代、STハセガワは仕事をしていない時間は庭仕事や金魚や鳥のブリーディングをして過ごしました。リトル・ライリー通りの家には立派な日本式の石庭があり、裏庭には池や鳥かごがたくさんありました。この庭を見るためにあちこちから人々が訪れていたと伝え聞いています。

当時は、日本食を食べたければ、日本船がウールの買い付けに入港している間にジーロングの波止場へ行って日本の船員と物々交換するしかありませんでした。STハセガワが存命の頃、家には日本の漬物が常備されていたそうです。ジーロングの日系コミュニティの規模は小さく、オーストラリア人女性と結婚し、洗濯屋を営んでいた曽祖父の他に4人の男性がいました。彼らは定期的に集まって日本語で話をしていたそうです。

私が生まれた1960年代にはリトル・ライリー通りの日本庭園は世の中から忘れ去られていました。池は空で、鳥かごはずっと前になくなっていました。STハセガワの思い出は色あせていました。末息子のジョーは、1956年に父親が亡くなると姓をコールに変え、日系の記憶を消し去りました。私の祖父、レオは、亡くなるまでこの名前を守り、彼の3人の息子たちもそうしました。レオの娘、マツは、ほとんどの人からスーと呼ばれていました。二世や三世、そしてその周囲の人たちも、日系であることことに居心地の悪さを感じていたのです。

私はよく、なぜ4世の自分が日系であることに興味を持ったのだろうと考えます。その理由は1つではなく、たくさんあったことが今となってはわかります。私の好奇心の出発点は、パスポートや懐中時計、そろばんといった祖父のさまざまな持ち物を父が自宅に集めていたことです。父は小さい子どもだった私に家族の宝物を見せ、祖父の話をしてくれました。それが印象に残り、私の好奇心はますますかき立てられました。私は外見通り、ビクトリア州のアングロサクソン系白人の住む西側育ちの少年でありながら、そうではない一面もありました。

日本に対する態度が変わりつつある時代でもありました。のけ者国家から最大の貿易相手国、大きな関心を寄せられる国となり、日本の商品やアニメーション、食は私たちの注目を集め、想像力をかき立てました。まだ子供だった1970年代初頭、スキヤキ・ハウスへ行ったことを覚えています。それはメルボルンの日本食レストランで、ウェイトレスのほとんどが日本人の戦争花嫁で、その1人に私の名字を日本語で書いてもらいました。メルボルン初の日本食レストランだったかもしれません。私にとっては間違いなく、日本人と会い日本食を食べた初めての経験でした。たくさんの意味で、私と曽祖父の国との生涯にわたる関係の始まりでもありました。

最終的に私は日本に渡り、最初は1980年代前半に学生として、最近ではビジネスマンとして日本で暮らしました。要するに私のルーツが私の人生になりました。振り返ると、特に戦中や戦後にハセガワ家の二世や三世が日系であることを遠ざけようとしていた時代、彼らは人種やヘイトにかかわる複雑な問題に対処しなければなりませんでした。でも私には、そのような苦労はほとんどありませんでした。

 

© 2019 Andrew Hasegawa

星 16 個

ニマ会によるお気に入り

このシリーズへの投稿作品は、ニマ会読者と編集委員によるお気に入り投票の対象作品でした。投票してくださった皆様、どうもありがとうございます。

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このシリーズについて

「ヒーロー」という言葉は、人によって異なる意味を持ちます。このシリーズでは、日系ヒーロー、すなわち彼らが人々に与えた影響についてさぐってみました。あなたのヒーローは誰ですか?あなたのヒーローはあなたの日系アイデンティティまたは日系人とのつながりにどのような影響を与えましたか?

ディスカバー・ニッケイでは、2019年5月から9月までストーリーを募集し、11月12日をもってお気に入り作品の投票を締め切りました。全32作品(英語:16、日本語:2、スペイン語:11、ポルトガル語:3)が、アルゼンチン、オーストラリア、カナダ、日本、ブラジル、米国、ペルー、メキシコより寄せられました。

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