ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/682/

テキサス州クリスタルシティーでの生活環境 (英語)

(英語) 私たちはアメリカの学校へ行った後日本の学校にも通っていました。そして土曜日は1日中日本の学校があって、日曜日は教会に通っていました。だから毎日何らかの形の学校に行っていたことになりますね(笑)。学校では子供用の行事がたくさん企画されていましたし、みんな参加していたように思います。友達のお父さんは一応警官だったのですが、確か9時くらいの日没の時間になると、若い人たちがみんなちゃんと家に帰り着いているか確認して回っていたんですね。子供達が非行に走るのを防ごうということですね(笑)。そこでの警官の役目というものがどんなだったのか、よくわかりませんね。私の父は肉屋でした。

(クリスタル・シティでの生活環境に関して言えば)何と言うか、私が感じていたことや読んだこと、それから姉たちの話や口調から判断すると、ずいぶん健全な環境だったように思います。私たちはそこに強制収容されていましたし、そのことはゆるぎない事実です。強制収容されたことへの苦い思いも確かにある訳ですけれど、でも私たちはそれをどうにか乗り超えて、家族や地域社会と密接でとてもきちんとした生活を送ることができていました。それはミニドカの収容所では不可能だったことですね。


クリスタルシティ収容所 司法省管轄の抑留所 投獄 監禁 テキサス アメリカ合衆国 第二次世界大戦 第二次世界大戦下の収容所

日付: 1998年5月27日

場所: 米国、ワシントン州

インタビュアー: ロリ・ホシノ

提供: Denshō: The Japanese American Legacy Project

語り手のプロフィール

マコ・ナカガワ氏は、1937年2月ワシントン州シアトルで生まれた日系二世の女性です。戦前の幼少時代を同地で過ごしますが、(戦争が始まると)ワシントン州ピュウアラップの集合センター、アイダホ州ミニドカの収容所、テキサス州クリスタル・シティの収容所に収容されました。戦後は教諭、学校長となり、その後ワシントン州公立教育指導局長のもと多文化研究のスペシャリストとして従事。そして全米初の多人種教育プログラムである、Japanese American Cultural Heritage Programおよびレインボー・プログラムを展開し指導しました。2021年4月4日、84歳でお亡くなりになりました。(2021年7月)

フランク・ヤマサキ

ほこりだらけのミニドカ収容所の記憶(英語)

ワシントン州出身の二世。戦時中徴兵拒否。(1923年生)

マリオン・ツタカワ・カネモト

真珠湾攻撃後のFBIによる家宅捜索(英語)

日系アメリカ人二世。第二次大戦中に自主的に日本へ移住。(1927年生)

マリオン・ツタカワ・カネモト

子供の時にみた父の逮捕(英語)

日系アメリカ人二世。第二次大戦中に自主的に日本へ移住。(1927年生)

マリオン・ツタカワ・カネモト

戦時中に参加した日本での兵役訓練(英語)

日系アメリカ人二世。第二次大戦中に自主的に日本へ移住。(1927年生)

マリオン・ツタカワ・カネモト

先生から聞いた反アメリカプロパガンダ(英語)

日系アメリカ人二世。第二次大戦中に自主的に日本へ移住。(1927年生)

マリオン・ツタカワ・カネモト

第2次大戦中の日本での苦難(英語)

日系アメリカ人二世。第二次大戦中に自主的に日本へ移住。(1927年生)

藤間勘須磨

戦中は隣人にホテルビジネスを預け収容所へ (英語)

日本舞踊・歌舞伎役者 (1918-2023)

フレッド・ササキ

第二次大戦中の排日感情(英語)

カナダの一世ビジネスマン(1918年生)

児玉良一

戦時中に取り上げられた運転手としての仕事

笠戸丸移民

アイコ・ヨシナガ・ハージック

政治権力の欠如が収容所の一因(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)

スー・エンブリー

若かりし頃の視点 (英語)

コミュニティ活動家、マンザナー委員会の共同創設者(1923年 - 2006年)

シズコ・カドグチ

東へ移住か渡日かの選択(英語)

日系カナダ人二世。池坊トロント支部を設立。(1920年生)

アイコ・ヨシナガ・ハージック

囚人のように思えた収容所生活(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)

アイコ・ヨシナガ・ハージック

制度化されたシステムの悪影響(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)

アイコ・ヨシナガ・ハージック

日系人収容者の取り扱いに対する懸念を表す公文書(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)