ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/398/

真珠湾攻撃後のFBIによる家宅捜索(英語)

(英語) FBIが家宅捜査に来た時のことを今でも覚えています。

父はボディーチェックを受けました。その時父は400ドルだったかいくらかの現金を所持しており、札束をくるっと巻いて持っていました。当時私達の家には預金箱だったか、金庫といったかしら・・・とにかくなかったので、父はお金を身につけていてもおくしくはありませんでした。FBI捜査官はもちろんそれを没収し、すべてを取り上げました。そして子供部屋や奥の部屋を捜索した後、私達の元へ戻って来ると父に生活必需品をまとめるよう命じました。本当に普通の茶色いカバンだけですよ。父はそれに洗面道具を入れ、家から連れ去られていきました。スーツケースもなしにです。

私は「えっ!父は一家の家長としていつも皆に命令していたのに、今ではまるで子犬のように、他の人に支配されている・・・」と思いました。私はその様な姿を見たことがありませんでした。それは違和感を覚えるような奇妙な出来事でした。子供ながらに恐ろしいと感じたのです。


日付: 2003年8月3・4日

場所: 米国、ワシントン州

インタビュアー: アリス・イトウ

提供: Denshō: The Japanese American Legacy Project.

語り手のプロフィール

マリオン・ツタカワ・カネモトさんは1927年12月30日にワシントン州シアトルで生まれた日系二世の女性です。子供の頃日本で15ヶ月過ごした後、シアトルへ戻り中等教育を受けました。真珠湾攻撃の後、彼女の父はFBIに拘束され、司法省管轄のモンタナ州ミズーラの収容所へ収監されました。彼女自身はピュヤラップ集合センターからアイダホ州ミニドカ収容所へ収容、ミニドカにて父と再会しました。1943年、彼女の家族は日本へ戻ることを志願したため、アメリカ政府による捕虜交換船「USSグリプスホルム号」にて日本へ送還されました。日本で高等教育を受け、戦時中は空襲訓練などにも参加しました。戦後のアメリカ軍占領下の日本で、同志社大学へ入学し、アメリカ軍基地の病院図書館で働きました。その後、アメリカへ帰国し、ミネソタ州ロチェスターのセントマリー教育実習病院に入学。戦中に日本へ送還されていたため、収容所に対する戦後補償を拒否されましたが、集団訴訟の結果、1996年に補償を得ることに成功しました。

*全インタビューはDenshō: The Japanese American Legacy Projectにて見ることができます。

ジョージ・アリヨシ

戦時中のプロム (英語)

民主党政治家。3期ハワイの知事を務めた。(1926年生)

ジョージ・アリヨシ

退役軍人の影響 (英語)

民主党政治家。3期ハワイの知事を務めた。(1926年生)

ジーン・アリヨシ

真珠湾攻撃の日 (英語)

ハワイ州知事の元ファーストレディー

カズオ・フナイ

日本と米国

一世実業家(1900-2005)

カズオ・フナイ

東京の会社が焼失

一世実業家(1900-2005)

ジェームス・ヒラバヤシ

10代での収容所生活 (英語)

(1926 - 2012) 文化人類学者。学問として民族研究学科を設立した第1人者

ロバート・カタヤマ

日記をつけるように命令され、後にFBIへ押収(英語)

第2次大戦中に第442連隊に所属していたハワイの二世

バーバラ・カワカミ

真珠湾攻撃 (英語)

日本人移民の衣服専門家・研究者

バーバラ・カワカミ

兵士たちを手助け (英語)

日本人移民の衣服専門家・研究者

バーバラ・カワカミ

兄の出兵、そして生き残ること (英語)

日本人移民の衣服専門家・研究者

ユリ・コチヤマ

白人と同じ権利を求めて(英語)

公民権運動の政治活動家(1922年-2014年)

ユリ・コチヤマ

立ち退き命令を知らないカリフォルニア人(英語)

公民権運動の政治活動家(1922年-2014年)

ユリ・コチヤマ

真珠湾攻撃の日(英語)

公民権運動の政治活動家(1922年-2014年)

ユリ・コチヤマ

病院に入った戦時捕虜としての父(英語)

公民権運動の政治活動家(1922年-2014年)

ユリ・コチヤマ

愛国心 VS. 忠誠心(英語)

公民権運動の政治活動家(1922年-2014年)