ディスカバー・ニッケイ

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テキサス州クリスタルシティーでの生活環境 (英語)

(英語) 私たちはアメリカの学校へ行った後日本の学校にも通っていました。そして土曜日は1日中日本の学校があって、日曜日は教会に通っていました。だから毎日何らかの形の学校に行っていたことになりますね(笑)。学校では子供用の行事がたくさん企画されていましたし、みんな参加していたように思います。友達のお父さんは一応警官だったのですが、確か9時くらいの日没の時間になると、若い人たちがみんなちゃんと家に帰り着いているか確認して回っていたんですね。子供達が非行に走るのを防ごうということですね(笑)。そこでの警官の役目というものがどんなだったのか、よくわかりませんね。私の父は肉屋でした。

(クリスタル・シティでの生活環境に関して言えば)何と言うか、私が感じていたことや読んだこと、それから姉たちの話や口調から判断すると、ずいぶん健全な環境だったように思います。私たちはそこに強制収容されていましたし、そのことはゆるぎない事実です。強制収容されたことへの苦い思いも確かにある訳ですけれど、でも私たちはそれをどうにか乗り超えて、家族や地域社会と密接でとてもきちんとした生活を送ることができていました。それはミニドカの収容所では不可能だったことですね。


クリスタルシティ収容所 司法省管轄の抑留所 投獄 監禁 テキサス アメリカ合衆国 第二次世界大戦 第二次世界大戦下の収容所

日付: 1998年5月27日

場所: 米国、ワシントン州

インタビュアー: ロリ・ホシノ

提供: Denshō: The Japanese American Legacy Project

語り手のプロフィール

マコ・ナカガワ氏は、1937年2月ワシントン州シアトルで生まれた日系二世の女性です。戦前の幼少時代を同地で過ごしますが、(戦争が始まると)ワシントン州ピュウアラップの集合センター、アイダホ州ミニドカの収容所、テキサス州クリスタル・シティの収容所に収容されました。戦後は教諭、学校長となり、その後ワシントン州公立教育指導局長のもと多文化研究のスペシャリストとして従事。そして全米初の多人種教育プログラムである、Japanese American Cultural Heritage Programおよびレインボー・プログラムを展開し指導しました。2021年4月4日、84歳でお亡くなりになりました。(2021年7月)

ジョージ・カズハル・ナガヌマ

クリスタルシティの雷

(1938年生まれ)クリスタルシティに収容されていた日系ペルー人

カズム・ナガヌマ

妹のキヨは彼にとって第二の母親のような存在だった

クリスタル・シティに収容された日系ペルー人(1942年生)

ミア・ヤマモト

父親の影響

(1943年生まれ) 日系アメリカ人トランスジェンダー弁護士

ベン・サコグチ

キャンプから帰ってきて

(1938年生まれ) 日系アメリカ人の画家、版画家