ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/463/

日本社会への突然の受け入れ(英語)

(英語) 今年で(総合格闘家としては)5年目になるんだけど、(最初は)1試合だけ戦ってみようと自分の中では考えていたんだよね。この一戦だけ挑戦してみよう、とね。そしてその時まで僕はガイジン、とかよそ者っていう風に見られてたんです。

日本で外国人として暮らしていて、嫌な思いをたくさんしてきました。ビザを取ったり、生活したり、車を買ったりする時、日本人じゃないと全てが難しいんです。そういう事に当時はすごく怒りを覚えてたんだよね。だから最初の3試合か4試合までかな、赤、白、青のショートパンツをはいていたんだけど、自分はアメリカ人なんだっていう気持ちを表していたんですね。僕は日本人じゃないんだ、っていうね。日本に来てから自分がどんな風に扱われいたかを考えると、日本に対して相当強い憤りを覚えていたんですね。

それで僕はリングに上がって、相手をかなりいい感じで倒したんですよ。そしたらマスコミはすぐ僕の側に回ってきたんです。僕のことを急に日本人として扱うようになって、雑誌には見開き1ページカラーでその試合のことを取り上げてたんです。それで、こんなに評判になってしまったら今辞めることはできないな、と思ってもう1試合、もう1試合、と重ねるうちに、それが3試合になり、4試合になって、次が5試合目だからね。今となっては考え方も変わったし、「自分はこんなに強いのか?本当に強いのか?」って自問するんだけど、世界とどこまで戦えるのか挑戦してみたいんです。

そんなこんなで、13年日本に居ますよ。


ボクシング Finding Home(映画) アイデンティティ スポーツ

日付: 2003年10月14日

場所: 日本、埼玉県

インタビュアー: アート・ノムラ

提供: アート・ノムラ、『ファインディング・ホーム』

語り手のプロフィール

エンセン井上はハワイで生まれ育ち、ハワイ大学で3年間心理学を学びました。日本への在住意志はありませんでしたが、23歳の時ラケットボールのトーナメントへ参加するため2週間の予定で日本を訪問しました。トーナメントに勝ち残ったあと、ラケットボールのセミナーへ参加するため、滞在期間を3ヶ月間延長しました。その後、ハワイへの帰国を1年間先送りにし、日本へ滞在。その翌年は英語を教えるかたわら、兄のラケットボール会社の経営を手伝っていたため、さらにあと1年と滞在期間が延びていきました。その後、ラケットボールをあきらめボクシングへと転向。インタビューが行われた2003年秋には、すでに13年半の在日期間が過ぎており、ハワイへは6年間ほど戻っていないそうです。現在は「大和魂」のリング名にてプロの格闘家として知られています。彼は自分のアイデンティティについて、アメリカ人であると主張する一方、ホーム(故郷)は日本であると答えています。(2003年10月14日)

リチャード・コサキ

ワイキキで育った経験(英語)

ハワイ出身の政治学者・教育者(1924年生)

ピーター・ミズキ

剣道の修行のために訪れた日本 (英語)

在日三世・剣道家

ロイ・ヒラバヤシ

太鼓演奏の哲学(英語)

サンノゼ太鼓の共同設立者・支配人 (1951年生)

ジェロ (ジェローム・チャールズ・ホワイト Jr.)

母と祖母を見て学んだ日本の伝統(英語)

演歌歌手(1981年生)

ピーター・ミズキ

米国国籍を持つ日本人の妻 (英語)

在日三世・剣道家

モニカ・小木曽

日本文化の継承-日本語学校(スペイン語)

(1969年生) アルゼンチン日系センターの前会長

ピーター・ミズキ

目立ちたくない外国人(英語)

在日三世・剣道家

フランク・ヤマサキ

人類全体への思いやり(英語)

ワシントン州出身の二世。戦時中徴兵拒否。(1923年生)

モニカ・小木曽

アイデンティティ・クライシス(スペイン語)

(1969年生) アルゼンチン日系センターの前会長

ジェロ (ジェローム・チャールズ・ホワイト Jr.)

家族以外の人前で歌うことはなかった演歌(英語)

演歌歌手(1981年生)

藤間勘須磨

日本舞踊を通して感じる日本人・アメリカ人の両アイデンティティ(英語)

日本舞踊・歌舞伎役者 (1918-2023)

ビンス・オオタ

在日3年後に決めた日本永住の理由(英語)

在日日系アメリカ人デザイナー

アイコ・ヨシナガ・ハージック

アメリカ人になろうとした結果(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)