ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/436/

渡米(英語)

(英語) 僕はね、自分が住んでいた小さい町を出て行きたいなといつも思ってたんです。その頃、僕が住んでいた家から1ブロックほど離れたところに映画館があったんです。ジョン・ウェインとかが、「バーン、バーン」と出てくるようなアメリカの強いカウボーイの映画を見てましてね。英語はよくわからなかったけどストーリーは面白かったんですよ。いつも最後には悪者が死んじゃうようなとてもシンプルなストーリでね。僕はアメリカって大きい国だなあと思って、行ってみたいって思ってたんです。

I* :どうしてサンフランシスコを選んだのですか?

これにはまた別の理由があって、僕が大学で武道をしていた時、妻に東京で出会ったんです。彼女はアメリカ生まれの3世の日系人で、早稲田大学に留学していたんですよ。彼女の専攻は写真で、偶然にも僕らの(武道の)練習に興味を持って、彼女が僕の写真を撮るようになって、僕たちはお互いを知るようになったんですよ。それで、僕が長いことアメリカに行ってみたかったことを彼女に話したんです。それかブラジルに行ってみたかったけど、農業の経験は全然ない訳でしょ。それで、彼女のお父さんは亡くなっていましたから代わりにお兄さんが僕のビザのスポンサーになってくれたんですよ。そうして僕はサンフランシスコではなくて、ワトソンビルのイチゴ畑でメキシコ人と一緒にイチゴ摘みの仕事をしたんです。

* "I" はインタビュワー(アート・ハンセン)


農業 カリフォルニア州 農業 (farming) 果樹栽培業者 移住 (immigration) 移住 (migration) サンフランシスコ ストロベリー生産者 アメリカ合衆国

日付: 2005年1月27日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: アート・ハンセン、ソージン・キム

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

北米和太鼓の師、田中誠一氏は1943年生まれ東京出身の新一世です。千葉商科大学を卒業後、1967年にアメリカへ移住しました。移住当初はワトソンビルで苺摘みをするなど農業労働者として働いてました。その後、サンフランシスコへ引越し、1968年にはサンフランシスコの日本町で行われた桜祭りに参加しました。しかし、この時の桜祭りには彼が若い頃日本のお祭りで耳にした太鼓の音が欠けていました。物足りなさを感じた田中氏は、秋祭りの時に、友達で寄り集まり、地元のお寺から太鼓を借り、自ら太鼓を演奏したのです。以後、太鼓を学ぶために、幾度となく日本へ帰国し、そのつど日本で学んだ知識をアメリカの同志へ教えていきました。1950年代に始まった日本での太鼓復興をアメリカに持ち込み、1968年に北アメリカで初の和太鼓道場(学校)、サンフランシスコ太鼓道場を設立しました。以来、彼は何千人もの生徒を教えてきました。

今日、アメリカ・カナダには200以上の太鼓グループが存在しており、その大半はサンフランシスコ道場へそのルーツをたどることができます。田中氏は基本的な太鼓のリズムパターンや動きを教え続けていますが、その教え方は武道が基本になっています。また、彼の太鼓スタイルは、日本のお祭りの伝統に起因していますが、彼自身のアメリカでの体験も反映され、伝統的な太鼓のリズムにジャズ・ラテン・他のリズムなども融合されています。

彼は日本外務大臣表彰や National Endowment for the Arts' National Heritage Fellows Award(米国版重要無形文化財) を受賞しました。(2005年1月27日)

フレッド・ササキ

フレデリック・ヨシヒデ・ササキの家族構成(英語)

カナダの一世ビジネスマン(1918年生)

キミ・ワカバヤシ

見合い結婚 (英語)

日系カナダ人一世。1931年にカナダへ夫と移住。(1912年生)

キミ・ワカバヤシ

移住初期のカナダでの生活 (英語)

日系カナダ人一世。1931年にカナダへ夫と移住。(1912年生)

ミツオ・イトウ

渡日の決意(英語)

日系カナダ人二世。戦後日本で英国軍の通訳者。日系カナダ人コミュニティで活躍(1924年生)

シズコ・カドグチ

東へ移住か渡日かの選択(英語)

日系カナダ人二世。池坊トロント支部を設立。(1920年生)

エンセン・井上

渡日の理由(英語)

日本在住のハワイ生まれの格闘家(1967年生)

ビル・ハシズメ

カナダの呼び寄せシステム(英語)

1952年まで日本からカナダへ帰国できなかった二世の日系カナダ人(1922年生)

ビル・ハシズメ

1954年にカナダへ帰国した理由(英語)

1952年まで日本からカナダへ帰国できなかった二世の日系カナダ人(1922年生)

飯野正子

一世女性とのインタビューを通して感じたこと

津田塾大学学長、日本人の日系史専門家

飯野正子

日本から移民した女性としなかった女性の違い

津田塾大学学長、日本人の日系史専門家

飯野正子

日本人移民に興味を持ったきっかけ

津田塾大学学長、日本人の日系史専門家

モニカ・小木曽

アルゼンチンへ移住してきた家族背景(スペイン語)

(1969年生) アルゼンチン日系センターの前会長

ビンス・オオタ

日本へ来たきっかけ(英語)

在日日系アメリカ人デザイナー

ビンス・オオタ

在日3年後に決めた日本永住の理由(英語)

在日日系アメリカ人デザイナー

ロベルト・ヒロセ

ハーフ日系(スペイン語)

二世日系チリ人、ビジネスマン(1950年生)