ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/392/

徴兵拒否の決意(英語)

(英語) 善良な100%アメリカ人だということを証明する為には軍に志願しなくてはならない、との噂が飛び交っていました。私達は忠誠心をもったアメリカ人である。だから自主的に軍に志願しろと。冗談じゃない!と私は思いました。そんなことは完全に間違っている、それより私達をシアトルに帰らせて欲しい。私達の両親にホテルを返して欲しい。私達を元の生活に戻して欲しい。私達はアメリカ人なのです。トニーはイタリア系なのに何故立ち退きを命じられないのですか?私のドイツ系の友達は何故立ち退きを命じられないのですか?彼らは日系人よりはるかに活動的な政治組織をアメリカに作っていました。思い返してみても、日系人が政治的に危険な考えをもち主張したことは全くありません。後に(日系人が)反政治的な危険な活動を行ったことが全くなかったことが証明されたと思います。


差別 徴兵拒否者 対人関係 人種差別 抵抗者 第二次世界大戦

日付: 1997年4月18日

場所: 米国、ワシントン州

インタビュアー: ロリ・ホシノ、スティーブン・フギタ

提供: Denshō: The Japanese American Legacy Project.

語り手のプロフィール

フランク・ヤマサキ氏は1923年ワシントン州シアトルで生まれた二世男性です。戦前の子供時代はシアトルのサウスパークとベルタウン地域で過ごしました。ワシントン州ピュヤラップ集合センターに収容された後、アイダホ州ミニドカ収容所へ送られました。しかし、徴兵を拒否したためワシントン州マクニール島の連邦刑務所へ収監されました。戦後はシアトルへ再移住しました。

*全インタビューはDenshō: The Japanese American Legacy Projectにて見ることができます。

ペギー・ニシムラ・ベイン

忠誠心の質問への返答(英語)

ワシントン州出身の二世。ツーレレイク強制収容所へ収容後、シカゴへ再転住。(1909年生)

マーガレット・クロイワ

第二次世界大戦中の収容所(英語)

一世医師の娘

ペギー・ニシムラ・ベイン

ツールレイクからミニドカ収容所への移動(英語)

ワシントン州出身の二世。ツーレレイク強制収容所へ収容後、シカゴへ再転住。(1909年生)

ペギー・ニシムラ・ベイン

収容所を出た後、シカゴでアパートを見つけることの難しさ(英語)

ワシントン州出身の二世。ツーレレイク強制収容所へ収容後、シカゴへ再転住。(1909年生)

リチャード・コサキ

真珠湾攻撃の後の疑惑(英語)

ハワイ出身の政治学者・教育者(1924年生)

ロジャー・シモムラ

戦中の体験を尋ねたときの父の否定的反応(英語)

日系アメリカ人画家、版画家、教授。(1939年生)

モニカ・小木曽

アイデンティティ・クライシス(スペイン語)

(1969年生) アルゼンチン日系センターの前会長

マリオン・ツタカワ・カネモト

先生から聞いた反アメリカプロパガンダ(英語)

日系アメリカ人二世。第二次大戦中に自主的に日本へ移住。(1927年生)

藤間勘須磨

戦中は隣人にホテルビジネスを預け収容所へ (英語)

日本舞踊・歌舞伎役者 (1918-2023)

フレッド・ササキ

フレデリック・ヨシヒデ・ササキの家族構成(英語)

カナダの一世ビジネスマン(1918年生)

フレッド・ササキ

第二次大戦中の排日感情(英語)

カナダの一世ビジネスマン(1918年生)

児玉良一

戦時中に取り上げられた運転手としての仕事

笠戸丸移民

アイコ・ヨシナガ・ハージック

政治権力の欠如が収容所の一因(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)

スー・エンブリー

若かりし頃の視点 (英語)

コミュニティ活動家、マンザナー委員会の共同創設者(1923年 - 2006年)

アイコ・ヨシナガ・ハージック

囚人のように思えた収容所生活(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)