ディスカバー・ニッケイ

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兄の出兵、そして生き残ること (英語)

(英語) (男の人が)兄を迎えに来た時、母は決して涙を見せませんでした。母は微笑み「誰が何と言っても、あなたはアメリカ人なのよ。オヤマ家の恥にならないようにね」と言いました。父親なしで育ったので、家名を傷つけるようなことがあってはなりませんでしたからね。「アメリカの為に戦うのよ。ここがあなたの国なんだから」母はそう言い、兄が行ってしまうと(一人で)家に戻って行きました。

するとどうでしょう!私が家に戻ると、母は寝室に鍵をかけ大泣きしているではありませんか! 私は母のそういうところを尊敬しているんです。父親なしで育った私たちのためにも、母は気丈に振舞い、弱いところは絶対に見せませんでした。だから私たちもやっていけたのです。

私たちは結束の強い家族でした。母が泣いているのを聞いたのはあの時だけだったと思います。未亡人であり、シングルマザーだったのは、大変な苦労だったと思いますよ。母は一度だけ私たちを置いて家を出ようとしましたが、何かをふっきりたかったんでしょうね。(その時は)隣り近所の人たちが止めに来てくれました。私も結婚してようやく移民時代がどれだけ大変だったかわかりました。日本にいる家族と離れ、親戚の手もかりず自分だけで生きていくすべを学んだのですから。


家族 第二次世界大戦

日付: 2004年2月19日

場所: 米国、ハワイ州

インタビュアー: リサ・イタガキ、クリッシー・キム

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

バーバラ・カワカミ氏は1921年熊本県に生まれました。彼女の家は封建時代からの農家で、そこで350年余りの歴史を持つ旧家でした。ハワイのオワフ島にあるオワフ砂糖農園で育った彼女は、仕立て屋・家政婦として働いていました。しかし、50歳を過ぎた頃、高校進学を決意し、その後テキスタイル・アンド・クロージング(繊維・衣服)の理学士号(BS)とアジア学の文学修士号(MA)を取得しました。カワカミ氏は日本人移民の衣料を専門とするストーリー・テラーであり、学者でもあります。(2004年2月19日)

アート・シバヤマ

真珠湾攻撃後、ペルーからアメリカへ連行(英語)

ペルー生まれの二世。第二次大戦中アメリカへ連行。(1930-2018)

アート・シバヤマ

ペルーから連行中のアメリカの輸送船の状況(英語)

ペルー生まれの二世。第二次大戦中アメリカへ連行。(1930-2018)

マリオン・ツタカワ・カネモト

真珠湾攻撃後のFBIによる家宅捜索(英語)

日系アメリカ人二世。第二次大戦中に自主的に日本へ移住。(1927年生)

マリオン・ツタカワ・カネモト

子供の時にみた父の逮捕(英語)

日系アメリカ人二世。第二次大戦中に自主的に日本へ移住。(1927年生)

マリオン・ツタカワ・カネモト

戦時中に参加した日本での兵役訓練(英語)

日系アメリカ人二世。第二次大戦中に自主的に日本へ移住。(1927年生)

マリオン・ツタカワ・カネモト

先生から聞いた反アメリカプロパガンダ(英語)

日系アメリカ人二世。第二次大戦中に自主的に日本へ移住。(1927年生)

マリオン・ツタカワ・カネモト

第2次大戦中の日本での苦難(英語)

日系アメリカ人二世。第二次大戦中に自主的に日本へ移住。(1927年生)

藤間勘須磨

戦中は隣人にホテルビジネスを預け収容所へ (英語)

日本舞踊・歌舞伎役者 (1918-2023)

フレッド・ササキ

第二次大戦中の排日感情(英語)

カナダの一世ビジネスマン(1918年生)

児玉良一

戦時中に取り上げられた運転手としての仕事

笠戸丸移民

アイコ・ヨシナガ・ハージック

政治権力の欠如が収容所の一因(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)

アイコ・ヨシナガ・ハージック

アメリカ人になろうとした結果(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)

シズコ・カドグチ

東へ移住か渡日かの選択(英語)

日系カナダ人二世。池坊トロント支部を設立。(1920年生)

アイコ・ヨシナガ・ハージック

囚人のように思えた収容所生活(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)

アイコ・ヨシナガ・ハージック

制度化されたシステムの悪影響(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)