ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/268/

兄の出兵、そして生き残ること (英語)

(英語) (男の人が)兄を迎えに来た時、母は決して涙を見せませんでした。母は微笑み「誰が何と言っても、あなたはアメリカ人なのよ。オヤマ家の恥にならないようにね」と言いました。父親なしで育ったので、家名を傷つけるようなことがあってはなりませんでしたからね。「アメリカの為に戦うのよ。ここがあなたの国なんだから」母はそう言い、兄が行ってしまうと(一人で)家に戻って行きました。

するとどうでしょう!私が家に戻ると、母は寝室に鍵をかけ大泣きしているではありませんか! 私は母のそういうところを尊敬しているんです。父親なしで育った私たちのためにも、母は気丈に振舞い、弱いところは絶対に見せませんでした。だから私たちもやっていけたのです。

私たちは結束の強い家族でした。母が泣いているのを聞いたのはあの時だけだったと思います。未亡人であり、シングルマザーだったのは、大変な苦労だったと思いますよ。母は一度だけ私たちを置いて家を出ようとしましたが、何かをふっきりたかったんでしょうね。(その時は)隣り近所の人たちが止めに来てくれました。私も結婚してようやく移民時代がどれだけ大変だったかわかりました。日本にいる家族と離れ、親戚の手もかりず自分だけで生きていくすべを学んだのですから。


家族 第二次世界大戦

日付: 2004年2月19日

場所: 米国、ハワイ州

インタビュアー: リサ・イタガキ、クリッシー・キム

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

バーバラ・カワカミ氏は1921年熊本県に生まれました。彼女の家は封建時代からの農家で、そこで350年余りの歴史を持つ旧家でした。ハワイのオワフ島にあるオワフ砂糖農園で育った彼女は、仕立て屋・家政婦として働いていました。しかし、50歳を過ぎた頃、高校進学を決意し、その後テキスタイル・アンド・クロージング(繊維・衣服)の理学士号(BS)とアジア学の文学修士号(MA)を取得しました。カワカミ氏は日本人移民の衣料を専門とするストーリー・テラーであり、学者でもあります。(2004年2月19日)

ハワード・カキタ

核兵器についての考え(英語)

広島で被爆した日系アメリカ人(1938年生)

イワオ・タカモト

マンザナーに向かう途中での喪失

ウォルト・ディズニーとハンナ・バーベラの日本人アニメーター(1925-2007)

ジミー・ナガヌマ

ペルーから米国へ強制連行(英語)

クリスタルシティに収容された日系ペルー人(1936年生)

モニカ・タイシャ―

フサガスガ強制収容所での祖父の話(英語)

米国在住の日系コロンビア人(1974年生)

モニカ・タイシャ―

フサガスガの強制収容所にいれられた祖父(スペイン語)

米国在住の日系コロンビア人(1974年生)

ジミー・ナガヌマ

クリスタルシティで歓迎を受けた家族(英語)

クリスタルシティに収容された日系ペルー人(1936年生)

ジミー・ナガヌマ

クリスタルシティでの最初の食事(英語)

クリスタルシティに収容された日系ペルー人(1936年生)

ジョージ・カズハル・ナガヌマ

クリスタルシティの雷

(1938年生まれ)クリスタルシティに収容されていた日系ペルー人

カズム・ナガヌマ

妹のキヨは彼にとって第二の母親のような存在だった

クリスタル・シティに収容された日系ペルー人(1942年生)

ミア・ヤマモト

父親の影響

(1943年生まれ) 日系アメリカ人トランスジェンダー弁護士

二宮 正人

奥様とのなれそめ

サンパウロ大学法学部博士教授、弁護士、翻訳家(1948年生)

レイコ・T・サカタ

親の結婚

(1939年生まれ) 戦時中に家族とともに自発的にユタ州ソルトレイクシティに移住した実業家。