ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1010/

補償を求める全国連合(NCRR)への参加 (英語)

(英語)私が初めて当時の公平委員会について講演した時、何人かの若者が、「強制収容所に徴兵拒否者がいたなんて、全然知りませんでしたよ。」と話しかけてきました。そして、「その話を聞きたいのですが、補償を求める全国連合(NCRR)のミーティングに来て話をしていただけますか?」と言ってきたんですね。それで私は出かけて行って、話をしました。私は、彼らの真剣な補償運動への取り組みに本当に驚かされました。そして彼らの一生懸命な姿を見て、自分も運動に加わりたいと思いました。私が運動に参加したのは1983年頃で、それからはずっと彼らと行動を共にしています。たしか1987年に議会に補償を働きかけるためにワシントンDCへ行ったのですが、その旅は楽しかったですね。その時私は下院議員と話をすることができたんです。


ハートマウンテン ハートマウンテン強制収容所 ハートマウンテン・フェアプレイ委員会 リドレス運動 アメリカ合衆国 第二次世界大戦下の収容所 ワイオミング州

日付: 2006年5月9日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: リサ・イタガキ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

フランク・エミ氏は、1916年9月23日、カリフォルニア州ロサンゼルスに生まれました。彼が家族と共に営んできたビジネスは、戦争により廃業に追い込まれ、エミ氏と妻、2人の子供はハートマウンテン強制収容所に送られました。

エミ氏は、多くの人々と共に日系アメリカ人強制収容の合憲性について声高に問いました。また、ハートマウンテン公平委員会の立ち上げに貢献し、徴兵拒否運動を起こし、政府が日系人に対して取った措置に抗議しました。当時、エミ氏には子供がいたため、徴兵対象者ではありませんでした。

公平委員会は、日系人がアメリカ市民権を取り戻し、家族が収容所から解放されれば、喜んで兵役を受け入れると論じました。合衆国政府は、エミ氏と他6名のリーダーを徴兵忌避の共謀罪で訴えました。エミ氏は、18か月投獄され、他86人は裁判を経て徴兵拒否の罪で投獄されました。

戦後、エミ氏や他の徴兵拒否者は、日系人リーダーや退役軍人からつまはじきにされていました。その扱いは、戦後40年経ち、賠償運動が高まり、不正に対して毅然と立ち向かった公平委員会への汚名が晴らされるまで続きました。

フランク・エミ氏は、2010年12月、94歳で亡くなりました。(2010年12月)

ジャック・ハージック

集団訴訟によってまとまった日系コミュニティ(英語)

元米国陸軍対敵諜報部将校(1922-2005)

ノーマン・ヨシオ・ミネタ

法案の支持者を求めて(英語)

アメリカ合衆国元運輸長官(1931年生)

フランク・ヤマサキ

賠償金について(英語)

ワシントン州出身の二世。戦時中徴兵拒否。(1923年生)

ノーマン・ヨシオ・ミネタ

ジム・ライトの支持を得ること (英語)

アメリカ合衆国元運輸長官(1931年生)

アイコ・ヨシナガ・ハージック

Asian Americans for Actionへ参加してよかったこと(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)

アイコ・ヨシナガ・ハージック

収容所経験のない一世に対する補償運動(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)

アイコ・ヨシナガ・ハージック

時期を見計らって始めた補償運動(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)

デール・ミナミ

コレマツ裁判が現代社会に与えた影響 (英語)

弁護士 (1946年生)

クリフォード・ウエダ

コミュニティを超えた思いがけない支援(英語)

政治活動家 (1917 - 2004)

ビル・ホソカワ

証拠の強み (英語)

ジャーナリスト (1915 - 2007年)

チェリー・キノシタ

賠償金請求の必要性 (英語)

補償運動のリーダーの一人 (1923 - 2008年)

チェリー・キノシタ

苦しみを乗り越えて (英語)

補償運動のリーダーの一人 (1923 - 2008年)

バート・ナカノ

ワシントン政界の説得 (英語)

政治活動家 (1928-2003年)

ジョージ・ヨシダ

三世と補償運動(英語)

音楽家 (1922年)

ウィリアム・マルタニ

補償金額の算出(英語)

CWRICに関わった唯一の日系判事