ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1002/

収容所新聞からの排斥 (英語)

(英語) 収容所新聞のセンチナルからは、私たちは激しいバッシングを受けました。馬鹿、愚か者、気が狂っている、とにかくいろいろと書かれました。記事を書いていたのは副編集長のノブ・カワイ氏で、彼はパサデナの米国日系人市民協会(JACL)の会長でした。(咳払い)3、4回の発行にわたり、たくさんの中傷記事が書かれました。日系アメリカ人市民同盟発行の新聞、パシフィック・シチズンにも同じように書かれました。サブロウ・キトウ氏もまたJACL新聞の編集者だったと思いますが、彼は、我々は反政府扇動罪で告発されるべきだという内容の社説を書いたのです。それは、合衆国政府が主張していたこと以上の厳しいものでした。扇動罪は、徴兵拒否よりももっと重い罪です。このような理由から私は、JACLは実際にそこまでしてでも我々を追いやろうとしていた、と言わざるを得ないのです。


公民権 徴兵拒否者 投獄 監禁 抵抗 抵抗者 第二次世界大戦

日付: 2006年5月9日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: リサ・イタガキ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

フランク・エミ氏は、1916年9月23日、カリフォルニア州ロサンゼルスに生まれました。彼が家族と共に営んできたビジネスは、戦争により廃業に追い込まれ、エミ氏と妻、2人の子供はハートマウンテン強制収容所に送られました。

エミ氏は、多くの人々と共に日系アメリカ人強制収容の合憲性について声高に問いました。また、ハートマウンテン公平委員会の立ち上げに貢献し、徴兵拒否運動を起こし、政府が日系人に対して取った措置に抗議しました。当時、エミ氏には子供がいたため、徴兵対象者ではありませんでした。

公平委員会は、日系人がアメリカ市民権を取り戻し、家族が収容所から解放されれば、喜んで兵役を受け入れると論じました。合衆国政府は、エミ氏と他6名のリーダーを徴兵忌避の共謀罪で訴えました。エミ氏は、18か月投獄され、他86人は裁判を経て徴兵拒否の罪で投獄されました。

戦後、エミ氏や他の徴兵拒否者は、日系人リーダーや退役軍人からつまはじきにされていました。その扱いは、戦後40年経ち、賠償運動が高まり、不正に対して毅然と立ち向かった公平委員会への汚名が晴らされるまで続きました。

フランク・エミ氏は、2010年12月、94歳で亡くなりました。(2010年12月)

ジーン・アクツ

徴兵反対者に対する日系コミュニティの反応(英語)

徴兵忌避者(1925年生)

ジーン・アクツ

世論に影響を与えるメディアの役割(英語)

徴兵忌避者(1925年生)

ジョージ・カツミ・ユザワ

JACLの全米書記マイク・マサオカの1942年のスピーチへの反応(英語)

戦後ニューヨーク市に移住した二世の花屋。日系アメリカ人の公民権運動で活躍。(1915-2011年)

ジーン・アクツ

「国家への忠義に関する質問」に対する葛藤 (英語)

徴兵忌避者(1925年生)

ウィリアム・ホウリ

収容所の中での教育(英語)

政治活動家(1927-2010)

ロレイン・バンナイ

「コレマツ対合衆国」裁判を読んで感じた怒り (英語)

弁護士(1955年生)

ロレイン・バンナイ

「コレマツ対合衆国」裁判が与えるアメリカの自由人権への脅威 (英語)

弁護士(1955年生)

デール・ミナミ

二世が戦中体験を語るきっかけとなった賠償運動の役割 (英語)

弁護士 (1946年生)

デール・ミナミ

歴史の重要性を考える (英語)

弁護士 (1946年生)

マコ・ナカガワ

テキサス州クリスタルシティーで別人の様になっていた父との再会 (英語)

教師(1937-2021年)

マコ・ナカガワ

テキサス州クリスタルシティーで過ごした幼年期の思い出 (英語)

教師(1937-2021年)

ピーター・アイロンズ

強制収容を知る (英語)

戦時中の裁判の再審要求を担当した弁護士(1940年生)

ジョージ・ヤマダ

真珠湾攻撃後に解雇された日系アメリカ人の鉄道労働者たち (英語)

初生雛鑑別師 (1923年生)

ピーター・アイロンズ

学ぶべき教訓 (英語)

戦時中の裁判の再審要求を担当した弁護士(1940年生)

ジョージ・ヤマダ

真珠湾攻撃後に映画館で受けた人種差別 (英語)

初生雛鑑別師 (1923年生)