川井 龍介

(かわい・りゅうすけ)

ジャーナリスト。慶應大学法学部卒。毎日新聞記者などを経て独立、ノンフィクションを中心に執筆。『大和コロニー「フロリダに日本を残した男たち」』(旬報社)、『「十九の春」を探して』、『122対0の青春』(共に講談社)など著書多数。日系2世の作家、ジョン・オカダ著『No-No Boy』の翻訳を旬報社より出版。『大和コロニー』は、「Yamato Colony: The Pioneers Who Brought Japan to Florida」として、University Press of Floridaより英語版が出版。

(2018年3月 更新)

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マイアミビーチ誕生に貢献した日本人: 100年前の原野から世界のリゾートへ ~ その1/3

毎朝テレビの天気予報では、江ノ島と湘南海岸の様子がよく映し出される。海面に半身を出したマッコウクジラのようにも見える島とその周辺のビーチは、首都圏の海沿いの観光地としても知名度が高いので、便利に使われるのだろう。

いまは、海水浴客などでにぎわうこの観光スポットは、神奈川県の藤沢市に含まれる。両隣の鎌倉、茅ヶ崎の2市などと併せてこのあたりの太平洋岸一帯の海岸は湘南海岸と呼ばれるが、そのほぼ中央にシンボル的に浮かんでいるのが江ノ島である。

江ノ島(藤沢)とマイアミビーチ

かつて地元の観光協会では、一帯を“東洋のマイアミ”として広く宣伝しようとしたことがある。

米フロリダ州にあり、避寒リゾートとして世界的にも有名な地名にあやかって同じ海沿いの観光地である地元を売り出そうとしたのだった。

それがきっかけで、1959年には、藤沢市はマイアミビーチ市と姉妹都市提携を結ぶことになった。

最初はマイアミ市に姉妹都市提携を申し入れたのだが、同市はすでに別の都市と姉妹都市提携しており断られた ...

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「ヤマト」と名のつく小学校がある米国の町 - “理想”の日本人コロニーが生まれた、リヴィングストン その2

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戦争による危機を超えて

最初の数年は、収穫は見込まれなかったが、やがてナスやサツマイモ、アスパラガス、トマトなどが収穫された。その後コロニーでは協同で、食糧の購入や販売などを始めたり、作物を荷造り、出荷するための小屋も建てられた。

コミュニティーづくりでも協力し合い、関係者みんながクリスチャンではなかったもののキリスト教の教会を建て、地域の核をつくっていった。また、コロニーの人々は町の白人社会との競合を避けるために、農作物に関するものを除いて、商店などを開いたりすることはなかった。

こうして発展していったコロニーでは1940年には、69の日本人家族が、3700エーカー以上を耕作していたという。太平洋戦争が勃発したのちは、彼らは強制収容所に送られるが、その間所有地の管理を契約して第三者に任せることができた。

戦後もコロニーはそのまま残り ...

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「ヤマト」と名のつく小学校がある米国の町 - “理想”の日本人コロニーが生まれた、リヴィングストン その1

世界の各地で暮らす日本人をリポートする民報のテレビドキュメンタリー番組が面白い。こんなところでわが同胞はこんなふうに生きているのかと、そのバイタリティーに感心すると同時に、まさに「人間いたるところ青山あり」という思いにいたる。

これは現代のお話だが、まだ世の中の情報や交通網が整っていなかった100年以上前に、すでに多くの日本人が、言葉と文化の壁を越えて世界に飛び出していった。その無数の足跡のなかから、アメリカでのいくつかのユニークな例をご紹介したい。

今回は、カリフォルニア州のリヴィングストンという小さな町に誕生した日本人コロニーの歴史と今について。ここには、ヤマトコロニー・エレメンタリー・スクール(Yamato Colony Elementary School)、つまりヤマトコロニー小学校という名称の学校がある。

町のミュージアムに残る日系の歴史

乾いた空気と刺すような強い陽射しの下 ...

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カリフォルニア、謎の若松コロニー異国で亡くなった悲運、おけいの墓を訪ねて ~ その3

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日系人たちにはよく知られた墓だった

「おけいの墓」の前に話を戻そう。周囲は草木ばかりで、まさに野の中にひっそりと作られた墓碑のあるところは、木陰になってこの日は色鮮やかな花が手向けられていた。

当然のことながら、背あぶり山の墓碑と同じ「In Memory of OKEI Died 1871 Aged 19years」、「おけい之墓」、「日本皇国明治四年 月 日没す」、「行年十九才」と、表裏に刻まれている。月日は記されていない ...

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カリフォルニア、謎の若松コロニー異国で亡くなった悲運、おけいの墓を訪ねて ~ その2

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プロシア人に率いられて太平洋を渡る

会津が官軍に攻め入られ鶴ヶ城が陥落したのが1868年秋、この翌年の春までに、会津を出てカリフォルニアにわたった一団があった。

当時、会津藩にオランダ国籍のプロシア人でヘンリー・シュネルなる人物がいた。武器商人で、会津藩と米澤藩の軍事顧問であり、かつ奥羽越諸藩同盟越後方面軍の参謀でもあった平松武兵衛という日本名をもつこの男が、会津から二十数人を率いて、カリフォルニアで入植事業を企てたのだ。

彼の妻は日本人(会津藩士または庄内藩士の娘ともいわれる)で、2人の間にできた子供の世話係として、おけいはこの移住計画に加わったと見られている。

横浜から米船籍のチャイナ号という船に乗った一行は、サンフランシスコに到着。そこからは蒸気船でサクラメント川を遡り、さらに荷馬車でゴールドラッシュで金鉱堀が盛んだった土地に近い、コロマ村のゴールドヒルという原野に落ち着いた。

シュネルは農園をつくるため土地を購入し、「Wakamatsu ...

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