Ryusuke Kawai

ジャーナリスト。慶應大学法学部卒。毎日新聞記者などを経て独立、ノンフィクションを中心に執筆。『大和コロニー「フロリダに日本を残した男たち」』(旬報社)、『「十九の春」を探して』、『122対0の青春』(共に講談社)など著書多数。日系2世の作家、ジョン・オカダ著『No-No Boy』の翻訳を旬報社より出版。『大和コロニー』は、「Yamato Colony: The Pioneers Who Brought Japan to Florida」として、University Press of Floridaより英語版が出版。

(2018年3月 更新)

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一世の記録を拾い集めた男 ~加藤新一の足跡をたどって~

第14回 日系新聞の記者となる

中部カリフォルニアで父を手伝い農業に従事した加藤は、父が日本に戻るとひとりロサンゼルス近郊のパサデナに出て造園業をつく。しかし、まもなく日系新聞の記者となった。ジャーナリズムに長年携わる彼の原点である。

北米でもハワイでも、そして南米でも移民社会のなかからは自然と日本語の新聞が生まれる。言葉の壁によって情報を得るのが難しいなか、日本語での情報は生活に欠かせないからだ。初期の日本語新聞は、日本で自由民権運動に関わった青年たちによる政治的な文書という意味があったが、移民が増えるにつれて各地域のコミュニティー紙が拡大していった。

ハワイ、サンフランシスコ、シアトル、ロサンゼルスをはじめデンバーやソルトレークシティ、シカゴなどでも日系新聞は誕生した。加藤新一が記者として活躍していたロサンゼルスの日系新聞は、サンフランシスコよりかなり遅れて1903(明治36)年4月に創刊された『羅府新報』がはじまりだった。


羅府日米から加州毎日へ

大正時代に入り ...

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一世の記録を拾い集めた男 ~加藤新一の足跡をたどって~

第13回 父に呼ばれてカリフォルニアへ

加藤新一の父、松次郎の渡米後の足跡を追ってみよう。1900年、松次郎が日本のどの港から出て、アメリカのどこに上陸したのかは定かではない。

新一本人が、「米國日系人百年史」のなかで記した自らのプロフィールでは、松次郎は渡米後「中加フレスノで日本飲食店、後ちパレヤで農業を営み、……」とある。しかし、甥の吉田順治さんによれば、「最初は、どこか鉄道工事の飯場のようなところで、コックをしていたと聞いたことがある」という。

その期間が短かったから加藤は、父の経歴を省略したのかもしれないが、日本からの出稼ぎ移民が鉄道工事の現場で働いたのはよくあることで、その中には当然、北米への移民第一県の広島出身者も多く含まれていた。

アメリカでは、1840年代末からのカリフォルニアのゴールドラッシュをきっかけにフロンティアをめざして人々は西部へと流れ込んでいた ...

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一世の記録を拾い集めた男 ~加藤新一の足跡をたどって~

第12回 土台は宗教的エートスか

「広島県移住史」より

加藤新一の出身地である広島県は、明治時代に入って全国でもっとも多くの海外移住者を送り出した「移民県」であることは、前回触れたとおりである。

移民の数を全国的にみると、県によって多くの差があることがわかる。神奈川県出身の私にとっては、海外移民は馴染みのないもので、親戚や近隣にも海外へ渡った人はいなかった。しかし、広島で取材をしていると、親戚や知り合いに海外へ出ていった人やその子孫がいることは決して珍しくはないことがわかる。

では、どうしてそれほど多くの県民が海外へ出ていったのか。いったいどんな背景があるのだろうか。

中国地方は山が多く一人あたりの耕地面積が狭い、あるいは自治体が移民を積極的に後押ししたなど、いくつか理由は移民関係の資料で目にしていたが、真正面からこの問題をとらえているものはないか探したところ、1993年に広島県が編集・発行した ...

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一世の記録を拾い集めた男 ~加藤新一の足跡をたどって~

第11回 アメリカ移民と父・松次郎の渡米

一旗揚げようと日本を出た?

『米國日系人百年史』のなかで加藤新一が記した自らのプロフィールによれば、父・松次郎は、新一が生まれた年(1900年)に、生まれたばかりの長男新一と妻を広島に残してアメリカに渡った。想像の域を出ないが、おそらく出稼ぎのつもりだったのだろう。

「加藤家のあったあたりは昔は農地で、加藤の家も土地を持っていましたし、松次郎さんがアメリカへ行ったのも、一旗揚げようとしたからでしょう。そういう人はいっぱいいて、成功して帰ってきた人のところへおじさん(新一)が私を連れていってくれたこともありました」と、新一の甥の吉田順治さんは言う。


一気に海外へと向かう

日本人の海外渡航を振り返れば、日米和親条約(1854年 ...

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一世の記録を拾い集めた男 ~加藤新一の足跡をたどって~

第10回 加藤家の墓 

原田東岷が死を確認

80歳を過ぎても軍縮問題など平和活動に打ち込んでいた加藤新一は、1982年2月9日の朝、自宅で脳梗塞のため亡くなった。突然のことだった。妻の章子さんはアメリカ生まれでモダンな生活を好み、アメリカ生活の長かった夫婦はオープンで仲睦まじく、寝室もともにしていた。

この日の朝、甥の吉田さん宅に章子さんから、ベッドにいる夫、新一の様子がおかしいと電話があった。吉田さんが母親の春江さん(新一の妹)と一緒に加藤宅に駆けつけると、新一はベッドの上で口をあけたまま横たわっていた。

すでに1キロほど離れた原田病院に連絡がしてあり、院長がやってきていた。院長の原田東岷(とうみん)氏(1912年〜99年)は、戦時中は軍医だったが ...

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