川井 龍介

(かわい・りゅうすけ)

ジャーナリスト。慶應大学法学部卒。毎日新聞記者などを経て独立、ノンフィクションを中心に執筆。「大和コロニー『フロリダに日本を残した男たち』」(旬報社)、「『十九の春』を探して」、「122対0の青春」(共に講談社)など著書多数。日系2世の作家、ジョン・オカダ著「No-No Boy」の翻訳を旬報社より出版。

(2016年1月 更新)

war ja

シアトル・宇和島屋物語 ~ The Uwajimaya Story

第13回 開戦、そして収容所へ

三人の子供を抱えて、森口富士松、貞子夫妻が切り盛りする宇和島屋には、商店ということもあって、いつも日本人が出入りしていた。子供たちはこうした大人たちにかわいがられ、面倒をみてもらうなど、日本の田舎のコミュニティーのような暮らしの中で育っていった。人々が気軽に集まってきたのは、同じ日本人で困っている人がいると、親身になって世話した貞子の人柄に負うところが大きかった。

富士松が愛媛県の郷里から呼び寄せられた弟の才助は、まもなくして体を壊して亡くなってしまったが、商売はそれなりに繁盛し、人を雇うほどだった。また、長男のケンゾウは、現地の小学校に通い、それが終わると日本人学校で学んだ。幼かったが8歳のころから商品を並べたり接客をしたりして手伝っていた。

移住してきた日本人の間では、子供が生まれると、なかには一度日本の郷里の実家などに預けて育ててもらうことはよくあることだった。日本で教育を受けさせたいという理由や、アメリカでの仕事や商売上 ...

続きを読む

business ja

シアトル・宇和島屋物語 ~ The Uwajimaya Story

第12回 タコマでの商売

シアトルの南50キロほどのところに位置する海沿いのタコマは、貿易の拠点として、工業都市として早くから発展してきた。1907年には人口は9万人に達していた。森口富士松が店を開いたのは1928年だが、日本人の数は20年代が最も多くなり、タコマ市内に約1600人が在留していたといわれる。

さかのぼれば、日本人が初めてタコマに足跡を残したのは1885年とされ、98年4月には熊本一二三という人物が会社を設立し、ノーザン・パシフィック鉄道に日本人工夫を斡旋、800人の労働者がその後就労した。また、タコマ近辺の製材業にも従事する日本人労働者が増えたほか、周辺地域で野菜や果実の栽培も日本人によって盛んにおこなわれるようになった。

なかでもタコマに隣接するファイフのまちは日本人農家が多く、とくに愛媛県出身者が多かったことから「愛媛村」とも呼ばれた。これには同県西宇和郡向灘(現八幡浜市)出身でアメリカで成功した西井久八の功績が大きい。同郷から渡航希望者を呼び寄せて援助を促した。


日本への帰国を思いながら ...

続きを読む

migration ja

シアトル・宇和島屋物語 ~ The Uwajimaya Story

第11回 シアトルからタコマへ

ワシントン州のシアトルやタコマが日本人移民の町として栄えたのは、サンフランシスコやロサンゼルス同様に、日本からの定期航路が開けた地であったことがその大きな理由である。

日本から北米への航路は1896(明治29)年、日本郵船が香港—日本—シアトル間に定期航路を開いたのがはじまりだった。同年8月1日に神戸を出港した三池丸が横浜を経由して、途中臨時でホノルルに寄り、8月31日にシアトルに入港した。

シアトルへの航路を開いたのは、シアトルを起点にした大陸横断鉄道と提携することで東海岸から貨物を船便で太平洋に輸送することをねらったからだった。また、サンフランシスコへはすでにアメリカの船会社が航路を開いていたため競争を避けたこともある。が、この点については、1898年に東洋汽船が果敢にもサンフランシスコ航路に参入した。

その後アメリカ西海岸における排日の雰囲気は徐々に高まり、1908(明治41)年には日本からアメリカ本土への移民を制限する協定が日米間で結ばれる。こうした情勢ではあったがこの翌年、大阪商船が貨物を主とする航路をタコマへ開き ...

続きを読む

migration ja

シアトル・宇和島屋物語 ~ The Uwajimaya Story

第10回 ルーツと同郷の成功者

日本人の場合、自分のルーツをたどろうとするならば、一般的には役所に行って戸籍をたどるのが一番だろう。また、菩提寺があれば寺が保管している先祖代々の記録である過去帳などを確かめるのもひとつの手だてである。

宇和島屋の創業家である森口家の墓のある八幡浜市の堯範寺(臨済宗)にも、代々の記録は残っている。しかし、森口家の場合、その昔の養子縁組などを含めた複雑な親族関係は、戸籍をたどってみてはじめて明らかになるようだ。

創業者である森口富士松は、1898(明治31)年、旧川上村川名津で父森口権七と母スワの長男として生まれる。森口家には富士松のほか、長女カメ、二女キノエ、二男才助、三女キク子、四女春子、五女カナ子 ...

続きを読む

migration ja

シアトル・宇和島屋物語 ~ The Uwajimaya Story

第9回 だんだん畑の集落から大志をもって

四国・愛媛県の西部、宇和海に面した八幡浜市。南北に走る国道378号を南に下っていくと、やがて西に折れて、その行きつく先が小さな舌間湾になる。ここで国道は海岸線に沿ってカーブを描きながら南へとつづく。

右手には穏やかな宇和海が見え隠れし、左手には家が立ち並んでいるが、その裏手はすぐに斜面になっていてだんだん畑が広がっている。のどかな海と山の間をゆくこの道は、近年サイクリングロードとしても人気があるようだ。 

愛媛といえばみかんだが、だんだん畑のなかには山の上まで農道が走り、収穫したみかんを運ぶためのモノレールが敷かれている。大きな建物は、出荷する大量のみかんを集める「共同選果場」だ。海に目を移せば、鯛やかんぱちなど養殖がさかんでいけすの“仕掛け”があちこちに見られる。

このあたりが、旧西宇和郡の川上村 ...

続きを読む