ディスカバー・ニッケイ

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補償金辞退の道理(英語)

(英語)僕は、委員会に関わる最初の頃から、補償として何らかの物質的支払いがある場合は、それを受け取らないことを人々に知らせておく必要があると思いました。僕への信用を保ち、CWRICの委員になることで、何かの批判にさらされないよう注意するためにも、早い段階から明白にしておくことが重要だと考えました。

ですから、僕が委員になる上で、補償としての金品の受け取りは全て拒否しておく必要がありました。このことは、記録として残りました。ついでに説明すると、保証金の支払いに反対している人たちの中には、このことを誤解している人たちもいたようです。「見ろ、マルタニって奴は言いくるめられたな。補償金が2万ドルでもいくらでもいらないらしい。反対票を投じたのだな。そうだ、奴は自分のために反対票を入れたんだ。」でも、これはどこかで言われている誤った解釈です。実際、僕は拒否した訳ではありません。補償管理局1は、僕に申し込み用紙を送ってきました。僕は、「放棄します」と書いて送り返したのです。

1. 市民の自由法(H.R. 442, the Civil Liberties Act of 1988、日系アメリカ人補償法)の成立により、補償に関する法律を遂行するため、補償管理局が設置された。


リドレス運動

日付: 1998年8月27日

場所: 米国、ペンシルバニア州

インタビュアー: ダーシー・イキ、ミッチェル・マキ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

ウィリアム・マルタニ裁判官は、ワシントン州ケントで生まれました。大統領行政令9066の発令により、マルタニ氏はワシントン大学から退学を強いられ、1942年フレズノ集合センターを経 て、ツールレイク強制収容所に収容されました。1942年秋、マルタニ氏は釈放され、サウスダコタ州ミッチェルのダコタ・ウェスリアン大学で法学を学ぶことになりました。

海軍に志願するも、4C(敵性外国人)の烙印を押され不合格となりましたが、アメリカ陸軍情報部の任務に就くことになりました。軍務を終えたマルタニ氏は、シカゴ大学の法科大学院で学び、ペンシルベニアで6カ月間の実習生となりました。その後、1975年までフィラデルフィア通常事件裁判所で裁判官の任務に就きました。

マルタニ氏は、日系アメリカ人市民同盟を拠点に活動し、様々な役割を担ってきました。また、当時のジミー・カーター大統領による、戦時中の日系人強制収容に関する調査のための、9名のCWRIC(戦時民間人転住勾留委員会)委員の1人に選ばれました。マルタニ氏は、委員に選ばれた唯一の日系人でした。(2008年4月11日)

ヘンリー・ミヤタケ

歴史は変化し続ける(英語)

補償運動の発起者の一人(1929-2014)

チェリー・キノシタ

賠償金請求の必要性 (英語)

補償運動のリーダーの一人 (1923 - 2008年)

チェリー・キノシタ

苦しみを乗り越えて (英語)

補償運動のリーダーの一人 (1923 - 2008年)

ビル・ホソカワ

賠償(リパレーション)から補償(リドレス)へ (英語)

ジャーナリスト (1915 - 2007年)

ビル・ホソカワ

証拠の強み (英語)

ジャーナリスト (1915 - 2007年)

チエ・トミヒロ

聴聞会の証人委員としての役割 (日本語)

JACLシカゴ支部の補償委員会の委員長

チエ・トミヒロ

話すことを阻んだ恥の意識 (日本語)

JACLシカゴ支部の補償委員会の委員長

チエ・トミヒロ

今後すべきこと (日本語)

JACLシカゴ支部の補償委員会の委員長

バート・ナカノ

補償運動への参加者の増加 (英語)

政治活動家 (1928-2003年)

バート・ナカノ

ワシントン政界の説得 (英語)

政治活動家 (1928-2003年)

バート・ナカノ

大衆の力 (英語)

政治活動家 (1928-2003年)

ジョージ・ヨシダ

三世と補償運動(英語)

音楽家 (1922年)

クリフォード・ウエダ

補償受給者決定のための判断基準(英語)

政治活動家 (1917 - 2004)

クリフォード・ウエダ

日系アメリカ人市民同盟(JACL)代表への任命(英語)

政治活動家 (1917 - 2004)

クリフォード・ウエダ

賠償から補償への変更(英語)

政治活動家 (1917 - 2004)