ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/471/

12歳で1930年のフォードを運転(英語)

(英語) 父は、1930年製A型フォードの4ドアセダンを購入しました。父はあまり運転が得意ではなかったので、私が運転することになりました。もちろん練習してからですけどね。農道には車通りがほとんどなかったので、運転の練習をするには安全な環境でした。フォードより難しかったのは、ドッジの1トントラックでした。トラックの運転は父には難しく、かわりに私が運転することになりました。私は12歳になる前に、自分の年齢を偽って運転免許証を手に入れました。


運転 家族 農場

日付: 2005年12月6日

場所: 米国、オレゴン州

インタビュアー: アケミ・キクムラ・ヤノ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

トシオ・イナハラ医学博士は、1921年4人兄弟の長男としてワシントン州シアトルで生まれました。3歳の時、家族とともに日本へ6ヶ月間滞在、その後、アメリカのタコマへ帰国した後、彼の父は和菓子屋、風月堂をオープンし成功しました。子供を田舎で育てることを望んだ父は、1931年にオレゴン州ポートランドの30マイル西にある農場へと引っ越しました。

1941年12月の日本による真珠湾攻撃を機に、西海岸にいる日系アメリカ人に対して集合センターへの移動命令が公布されました。しかし、イナハラ一家は旅行許可書を手に入れ、オレゴン東部の州境にあるオンタリオの近くへと自主的に移動しました。1942年、トシはアメリカ空軍へ志願しましたが、日系人という理由で拒否されました。

2年間家族の農業を手伝ったあと、トシオはウィスコンシン大学へ入学し医学を学びました。戦後はポートランドへ戻り、1950年オレゴン大学で医学博士を取得します。その後、インターンシップ・医学研修期間を終了した彼は、ボストンのマサチューセッツ病院で血管外科医として訓練を受けました。その後ポートランドへ戻り、個人で開業するかたわら、オレゴン大学の医学学校にて外科医学の臨床講師として務めました。

現在、イナハラ博士は頚動脈内膜剥離術(carotid endarterectomy: CEA)における世界で最も権威のある医者の一人であり、プルイット・イナハラ頚動脈シャントの共同発明者でもあります。(2005年12月6日)

与那嶺要(ウォーリー・ヨナミネ)

両親は沖縄出身者と内地出身者の結婚反対の風潮を体験 (英語)

沖縄出身の両親の持つ2世。38年間に渡り、日本の野球界で選手・コーチ・スカウト・マネージャーとして活躍。(1925年生)

与那嶺要(ウォーリー・ヨナミネ)

家計を助けるために砂糖きび畑で働いた10代の頃の経験 (英語)

沖縄出身の両親の持つ2世。38年間に渡り、日本の野球界で選手・コーチ・スカウト・マネージャーとして活躍。(1925年生)

パット・アダチ

父との関係(英語)

第2次大戦中の収容経験あり。日系カナダ人コミュニティのアクティブメンバー(1920年生)

キミ・ワカバヤシ

見合い結婚 (英語)

日系カナダ人一世。1931年にカナダへ夫と移住。(1912年生)

シズコ・カドグチ

家族の反対をおしきりボブと結婚(英語)

日系カナダ人二世。池坊トロント支部を設立。(1920年生)

エンセン・井上

日系アメリカ人家庭に育つ(英語)

日本在住のハワイ生まれの格闘家(1967年生)

エンセン・井上

家紋を探る(英語)

日本在住のハワイ生まれの格闘家(1967年生)

ジョージ・カツミ・ユザワ

1942年10月の妹の死(英語)

戦後ニューヨーク市に移住した二世の花屋。日系アメリカ人の公民権運動で活躍。(1915-2011年)

ジーン・ワカツキ・ヒューストン

真珠湾攻撃が家族に与えた影響(英語)

作家(1934年生)

ジーン・ワカツキ・ヒューストン

収容所での最初の印象 (英語)

作家(1934年生)

ロイ・ヒラバヤシ

家族で日本の伝統的お正月をお祝い(英語)

サンノゼ太鼓の共同設立者・支配人 (1951年生)

ロイ・ヒラバヤシ

学校と家で学んだ日本語(英語)

サンノゼ太鼓の共同設立者・支配人 (1951年生)

アイコ・ヨシナガ・ハージック

アメリカ人になろうとした結果(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)

アイコ・ヨシナガ・ハージック

別々に収容された家族(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)

フランク・ソギ

日本の親戚を訪問(英語)

弁護士、MIS退役軍人、フランシス&サラ・ソギ財団創設者 (1923-2011年)