ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1651/

家族のアマチでの強制収容について会話が不十分だった(英語)

(英語)私の家には収容所で撮影された写真のアルバムがありました。母はフランス語、英語、日本語が流暢だったので、コロラド州のアマチを担当していた軍人に雇われて働いていました。それで収容所の航空写真さえも手に入り、子供だった私たちは収容所の外観を見ることができました。バラックの写真も見ました。でも子供だったので、その苦労を本当の意味で理解することはできませんでした。他の人たちと一緒だったり、収容所の隣人や知り合いだった誰かに何かが起きたりする以外に収容所が話題に出ることはほとんどなく、食卓で収容所についての詳しい会話をすることもありませんでした。


アマチ強制収容所 コロラド州 強制収容所 投獄 監禁 写真 写真術 アメリカ合衆国 第二次世界大戦 第二次世界大戦下の収容所

日付: 2018年7月27日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: キラ・マツノ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター; Japanese American Bar Association

語り手のプロフィール

カリフォルニア州ロサンゼルス郡最高裁判事。カリフォルニア州トーランスで生まれ、ハーバーシティで育つ。アジア系アメリカ人女性として初めて米連邦地検民事部に採用され、マイノリティとして初のトーランス教育委員会公選役員となり、裁判官として初めてロサンゼルス生物医学研究所の役員を務めた。現在ロス・パドリノス少年裁判所の裁判官を務めている。ワッサーマン判事は、多様性がある友好的な地域で育ったので、安心して日系アメリカ人でいることができた。現在は、日系アメリカ人コミュニティと関わりながら、多様性促進のために活動し、弁護士や判事へ助言を行っている。(2018年6月)

ユリ・コチヤマ

一世と二世の一斉検挙(英語)

公民権運動の政治活動家(1922年-2014年)

アーチ・ミヤタケ

父に教えられた収容所の写真の重要性(英語)

写真家・ビジネスマン。

ジーン・ワカツキ・ヒューストン

真珠湾攻撃が家族に与えた影響(英語)

作家(1934年生)

ジーン・ワカツキ・ヒューストン

収容所での最初の印象 (英語)

作家(1934年生)

ジーン・ワカツキ・ヒューストン

甥との対話から生まれた小説 (英語)

作家(1934年生)

ジョージ・アベ

出生地のもつ意義に気づいて (英語)

太鼓・尺八奏者(1944生)

ロイ・H・マツモト

日本との戦争に対する何ともいえない感情(英語)

カリフォルニア出身の二世。第2次大戦中は、MIS(陸軍情報部)としてメリル襲撃隊にて活躍。(1913年生)

ジョージ・アベ

収容所の中で才能を磨く (英語)

太鼓・尺八奏者(1944生)

ロイ・H・マツモト

アーカンソー州にあるジェローム転住センターへ汽車による移動(英語)

カリフォルニア出身の二世。第2次大戦中は、MIS(陸軍情報部)としてメリル襲撃隊にて活躍。(1913年生)

ロイ・H・マツモト

日本軍に包囲されたときのメリル・マラウダー部隊の状況(英語)

カリフォルニア出身の二世。第2次大戦中は、MIS(陸軍情報部)としてメリル襲撃隊にて活躍。(1913年生)

ジーン・ワカツキ・ヒューストン

収容所の話ではなく人間ドラマ(英語)

作家(1934年生)

ペギー・ニシムラ・ベイン

忠誠心の質問への返答(英語)

ワシントン州出身の二世。ツーレレイク強制収容所へ収容後、シカゴへ再転住。(1909年生)

グレース・アイコ・ナカムラ

収容所でラリーが椅子をデザイン(英語)

カーデザイナー、ラリー・シノダの姉

ペギー・ニシムラ・ベイン

ツールレイクからミニドカ収容所への移動(英語)

ワシントン州出身の二世。ツーレレイク強制収容所へ収容後、シカゴへ再転住。(1909年生)

リチャード・コサキ

真珠湾攻撃の後の疑惑(英語)

ハワイ出身の政治学者・教育者(1924年生)