ディスカバー・ニッケイ

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朝鮮戦争での戦闘参加を避けるため、ヨーロッパでの任務を希望(英語)

(英語)1953年、私は高校を卒業しました。父からは当然、おまえはビジネスの道に進むのだから大学ではビジネスを専攻するんだと言われていました。私はまず工学部に進み、最終的に経営学部で学びました。当時としては普通だった、経済、経済学、マーケティングを主に学びました。

その頃、朝鮮戦争はちょうど終わりを迎えていましたが、私はまだ徴兵を恐れていました。友人のほとんどは・・・高校を卒業すると、徴兵対象者になりました。サンタクララ大学に進学した時、予備役将校訓練課程(ROTC)プログラムに進むかどうかの選択肢がありました。私は間違いなくあまり賢い方ではなく、落第する可能性もありました。落第したら徴兵されるので、ROTCプログラムに参加することにしました。卒業後は当然任務を命じられ、日本行きを希望すれば最終的に朝鮮半島に送られることを恐れてヨーロッパを希望しました。サンタクララ大学を卒業後、私はフランスに派遣され、陸軍軍需品科の配属になりました。戦闘への参加を恐れたからです。(笑)


ドラフト 教育 徴兵制

日付: 2018年3月22日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: ジョン・エサキ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

1935年6月29日、カリフォルニア州サリナス生まれ。父親は戦前から農業ビジネスを共同経営し、戦時中アリゾナ州ポストンに強制収容されていた間も電話や電報を利用し、ビジネスパートナーに助けられながらビジネスを続けた。ポストンから戻った一家はカリフォルニア州ロス・ガトスに移住し、農業ビジネスを継続した。トムはサンタクララ大学に進学し、米軍に入隊後、軍需品担当将校としてフランスに駐留した。ユキ・ファームのマネージメントパートナーの仕事をトムに継がせるつもりだった父親は亡くなり、その時トムは企業の契約管理者の仕事をしていた。トムは、全米日系人博物館での理事など、これまで多くの団体で役員を務めてきた。(2018年12月)

木下正夫

苦学生としてのサンパウロでの生活

負け組みの主要メンバー

サカエ・シゲカワ

喜んで医学校へ送り出してくれた両親 (英語)

南カリフォルニアの産婦人科医(1913-2013年)

サカエ・シゲカワ

良い助言を受けて (英語)

南カリフォルニアの産婦人科医(1913-2013年)

パウロ・イサム・ヒラノ

日本に移住して苦労したこと

(1979年生)群馬県大泉町在住の日系ブラジル人三世。デザイン事務所経営。

二木秀人

ポルトガル語の試験

一世教育者(1911年生)

二木秀人

ブラジルでの日本語教育

一世教育者(1911年生)

関利彦

金の卵を育てる

寿司職人(1962年生)

田岡 功

移住地教育とパラグアイへの思い

パラグアイ駐日大使(1943年生)

堀切 エドワード・徹

最も運に恵まれた一世(英語)

帰米二世(1929年生)

ススム・“スス” ・イトウ

復員兵援護法を利用して博士号を取得(英語)

日系二世、第442連隊戦闘団に所属し第二次世界大戦に従軍(1919 - 2015)

フミコ・ハチヤ・ワッサーマン

家族の日系ルーツと価値観 (英語)

日系三世、カリフォルニア州ロサンゼルス郡最高裁判事

ミツル・”ミッツ”・カタオカ

ロードアイランドで直面した住宅差別(英語)

日系アメリカ人デザイナー、教育者、メディアテクノロジー先駆者(1934-2018年)

ハワード・カキタ

アメリカ生活への適応(英語)

広島で被爆した日系アメリカ人(1938年生)

ジョージ・アリヨシ

舌足らずの話し方を直してくれた先生 (英語)

民主党政治家。3期ハワイの知事を務めた。(1926年生)

ジェームス・ヒラバヤシ

民族研究の内情 (英語)

(1926 - 2012) 文化人類学者。学問として民族研究学科を設立した第1人者