https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1510/
日系二世、連合国軍占領下の日本に駐留した退役軍人(1921年生)
(英語)答えのない疑問を抱え、さまざまな噂が出回る中、事務局に出向いて抗議し、一体何が真実なのか突き止めようという気運が高まっていたのでしょう。(暴動は)暗くなってからか、午後遅い時間、たそがれ時に起こりました。
事務局に大勢が乗り込んで来たので、向こうは憲兵を送り込んで来ました。彼らはただ来たのではありません。マシンガンを構えていました。何人いたのかは分かりませんが、数えきれない人数がフェンスの向こう側にいました。我々はこちら側でした。何事もなければ平和的に何かしらの回答をもらい、皆がそれぞれのバラックに戻ることができたのだろうと思います。
しかし、事務局側からは誰一人出てきませんでした。私たちと憲兵隊は、ただ顔を突き合わせている状態でした。そして悪いことに砂嵐が起きたのです。風が強く、夏のような気候ではありませんでした。もう既に冬で、12月でした。そして砂嵐が起きた時、私たちは皆動いて逆方向に走って逃げました。
しかし、それが憲兵の動揺を招きました。私たちが襲い掛かかろうとしていると思ったのです。被弾した人たちは、走って逃げる間に背中を撃たれました。これがこの出来事の一部始終でした。
憲兵隊は、催涙ガスを撒きました。そうです、催涙ガスです。それがさらに大きな混乱を招きました。私は、催涙ガスを撒くべきじゃなかったと言っているのではありません。発砲すべきではなかったんです。私たちは、武器は持っていませんでした。丸腰だったのです。
日付: 2015年2月6日
場所: 米国、カリフォルニア州
インタビュアー: ジョン・エサキ
提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター
1921年9月21日、日系移民の両親、イチスケとウメ・フクハラの元にカリフォルニア州ロサンゼルスで生まれる。1927年、ジミーの父は家族を連れてカリフォルニア州サンタモニカに移住し、種苗会社を起業。ジミーはサンタモニカ高校を卒業し、1942年に家族と共にマンザナー強制収容所に送られるまで父の会社で働く。
収容所から早期出所したジミーは弟のジョージと共にペンシルベニア州に移るが、その後60日以内に陸軍に徴兵される。陸軍情報学校に志願し、基礎訓練終了後に東京に派遣され、マッカーサー元師の総司令部(GHQ)の労働局で任務に就く。日本を離れる前、ジミーは両親の親戚を探すために広島を訪問。除隊後はサンタモニカに戻り、4人の兄弟と共に1986年まで種苗会社で働く。(2016年5月)
囚人のように思えた収容所生活(英語)
研究者、活動家(1924-2018年)
制度化されたシステムの悪影響(英語)
日系人収容者の取り扱いに対する懸念を表す公文書(英語)
1941年12月7日の記憶(英語)
弁護士、MIS退役軍人、フランシス&サラ・ソギ財団創設者 (1923-2011年)
MISで出会った本土からの日系人(英語)
当時の収容所に対する認識(英語)
犯人探し (英語)
大統領令9066の合憲性に抗議(1919-2005年)
最終判決 (英語)
収容所へ戻ろうとした時(英語)
政治活動家(1927-2010)
収容所の中での教育(英語)
カリフォルニア州ガーデナで育まれた順応性と競争心 (英語)
弁護士 (1946年生)
二世が戦中体験を語るきっかけとなった賠償運動の役割 (英語)
真珠湾攻撃後のFBIによる家宅捜査 (英語)
教師(1937-2021年)
テキサス州クリスタルシティーで別人の様になっていた父との再会 (英語)
テキサス州クリスタルシティーで過ごした幼年期の思い出 (英語)