ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1507/

真珠湾攻撃を知った時のこと(英語)

(英語)実は、真珠湾のニュースを聞いた時、私は日本語学校の卒業生のクラブに参加していました。当時私は、不運にもクラブの代表たったのです(笑)。クラブの会合が予定されていたのが、その日曜日でした。7日だったのでクリスマス会の準備だったかどうか、定かではありません。クリスマス会かお正月の準備、どちらかでした。

私は一人で行きましたが、着いた時には4、5人のメンバーが来ていました。そして先生が出て来てこう言いました。「だめだ。帰りなさい」。訳を聞くと、「日本人が真珠湾を攻撃したことを知らないのか?」と言われました。事態を飲みこめなかった私たちは、一体何を言っているんだ、という感じでした。すると先生は、「みんなが日本語学校に来るのはこれが最後になるかもしれない。もうここに来てはいけない。日本語学校には近づくな」と言われました。

それだけでした。それが最後でした。1941年に戦争が始まった時の記憶です。


日本語学校 語学学校 真珠湾攻撃、ハワイ、1941年 第二次世界大戦

日付: 2015年2月6日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: ジョン・エサキ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

1921年9月21日、日系移民の両親、イチスケとウメ・フクハラの元にカリフォルニア州ロサンゼルスで生まれる。1927年、ジミーの父は家族を連れてカリフォルニア州サンタモニカに移住し、種苗会社を起業。ジミーはサンタモニカ高校を卒業し、1942年に家族と共にマンザナー強制収容所に送られるまで父の会社で働く。

収容所から早期出所したジミーは弟のジョージと共にペンシルベニア州に移るが、その後60日以内に陸軍に徴兵される。陸軍情報学校に志願し、基礎訓練終了後に東京に派遣され、マッカーサー元師の総司令部(GHQ)の労働局で任務に就く。日本を離れる前、ジミーは両親の親戚を探すために広島を訪問。除隊後はサンタモニカに戻り、4人の兄弟と共に1986年まで種苗会社で働く。(2016年5月)

藤間勘須磨

戦中は隣人にホテルビジネスを預け収容所へ (英語)

日本舞踊・歌舞伎役者 (1918-2023)

フレッド・ササキ

第二次大戦中の排日感情(英語)

カナダの一世ビジネスマン(1918年生)

児玉良一

戦時中に取り上げられた運転手としての仕事

笠戸丸移民

アイコ・ヨシナガ・ハージック

政治権力の欠如が収容所の一因(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)

シズコ・カドグチ

東へ移住か渡日かの選択(英語)

日系カナダ人二世。池坊トロント支部を設立。(1920年生)

アイコ・ヨシナガ・ハージック

囚人のように思えた収容所生活(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)

アイコ・ヨシナガ・ハージック

制度化されたシステムの悪影響(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)

アイコ・ヨシナガ・ハージック

日系人収容者の取り扱いに対する懸念を表す公文書(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)

フランク・ソギ

1941年12月7日の記憶(英語)

弁護士、MIS退役軍人、フランシス&サラ・ソギ財団創設者 (1923-2011年)

フランク・ソギ

MISで出会った本土からの日系人(英語)

弁護士、MIS退役軍人、フランシス&サラ・ソギ財団創設者 (1923-2011年)

フランク・ソギ

当時の収容所に対する認識(英語)

弁護士、MIS退役軍人、フランシス&サラ・ソギ財団創設者 (1923-2011年)

フレッド・コレマツ

犯人探し (英語)

大統領令9066の合憲性に抗議(1919-2005年)

フレッド・コレマツ

最終判決 (英語)

大統領令9066の合憲性に抗議(1919-2005年)

ジョニー・モートン

日本語のスピーチ (英語)

プロアメリカンフットボール選手。(1971年生)

マコ・ナカガワ

真珠湾攻撃後のFBIによる家宅捜査 (英語)

教師(1937-2021年)