ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1204/

収容所の屋外便所とシャワー(英語)

(英語)収容所で私が一番嫌だったのは屋外便所でした。住居用バラックの棟ごとに置かれ、階段を登って行かなければなりませんでした。用を足すために毎回ステージの上に登るような感覚でしたね。(笑)水道水は飲めず、飲料水用の樽が置いてありました。(水洗)トイレはありませんでした。シャワーはなかったので、シャワーを浴びることもできませんでした。

どんな風にシャワーが使えるようになったか覚えていませんが、よく考えてみると、そうですね、後から付けられたのでしょう。初めて取り付けられた時のことを覚えているので、最初は無かったのだと思います。シャワーが最初についたのは第1ブロックで、皆そこに行って使いました。水はとても冷たく、雪解け水でした。(笑)

シャワーがなかった時はどうしていたのか覚えていません。バケツがあったので、バケツに水を汲んで洗っていたのかもしれません。定かではないです。そういうことは、私の記憶からずいぶん消し去られていますね。(笑)

最初の数週間、数カ月間は、かなり過酷な毎日でした。収容所そのものが大変な場所にありましたし、何しろ物が無かったので、最初の数週間は特に過酷でした。最悪だったのは屋外便所があっただけで、(水洗)トイレがなかったことです。それがとにかく大変でした。下水を通すまで水洗トイレはありませんでしたし、シャワーが無かったのも下水の問題だったのでしょう。


兵舎 投獄 監禁 第二次世界大戦 第二次世界大戦下の収容所

日付: 1998年6月12日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: ダーシー・イキ、ミッチェル・マキ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

ウィリアム・ホウリ氏は、1927年カリフォルニア州サンフランシスコに6人兄妹の末っ子として生まれました。第二次世界大戦の勃発と同時に、家族と共にカリフォルニア州のマンザナー強制収容所に収監されました。高校を卒業した1週間後、ホウリ氏は強制収容所からウィスコンシン州に移り、ウィートン大学に入学しました。1945年3月、ホウリ氏は、父親に会うため再びマンザナーを訪れましたが、許可証を持たずに来訪したとして身柄を拘束されました。さらに、彼個人に対する立ち退き命令が下され、その日の深夜までカリフォルニア州外へ強制退去させられることになりました。その時、ホウリ氏には銃口が突き付けられていました。

戦後、ホウリ氏は、日系アメリカ人市民同盟(JACL)のメンバーとなりましたが、反戦運動や公民権運動に対するJACLの無関心に失望しました。JACLが、議会の委任を受けて強制収容に関する調査活動に乗り出したことを受け、ホウリを中心とするシカゴとシアトル支部の反対者は、1979年5月、政府による個別補償を求めるため、全米日系アメリカ人市民連盟(NCJAR)を立ち上げました。当初、ホウリ氏とNCJARは、マイク・ローリー下院議員(ワシントン州選出)に個別補償の法案化を依頼しましたが、廃案となったため、ホウリ氏とNCJARは裁判で賠償請求を行うことにしました。1983年3月16日、ホウリ氏と24名の原告団は、政府を相手取り27億ドルの損害賠償を求める複雑訴訟形態の裁判を起こしました。

ホウリ氏は、2010年11月12日83歳でこの世を去りました。(2011年11月)

Peggie Nishimura Bain
en
ja
es
pt
ペギー・ニシムラ・ベイン

パインデール集合センターでの生活状況(英語)

ワシントン州出身の二世。ツーレレイク強制収容所へ収容後、シカゴへ再転住。(1909年生)

en
ja
es
pt
Peggie Nishimura Bain
en
ja
es
pt
ペギー・ニシムラ・ベイン

ツールレイク収容所での貝殻による手工芸品作り(英語)

ワシントン州出身の二世。ツーレレイク強制収容所へ収容後、シカゴへ再転住。(1909年生)

en
ja
es
pt
Peggie Nishimura Bain
en
ja
es
pt
ペギー・ニシムラ・ベイン

忠誠心の質問への返答(英語)

ワシントン州出身の二世。ツーレレイク強制収容所へ収容後、シカゴへ再転住。(1909年生)

en
ja
es
pt
Peggie Nishimura Bain
en
ja
es
pt
ペギー・ニシムラ・ベイン

ツールレイクからミニドカ収容所への移動(英語)

ワシントン州出身の二世。ツーレレイク強制収容所へ収容後、シカゴへ再転住。(1909年生)

en
ja
es
pt
Peggie Nishimura Bain
en
ja
es
pt
ペギー・ニシムラ・ベイン

収容所を出ることへの懸念(英語)

ワシントン州出身の二世。ツーレレイク強制収容所へ収容後、シカゴへ再転住。(1909年生)

en
ja
es
pt
Richard Kosaki
en
ja
es
pt
リチャード・コサキ

収容所への442連隊の兵士の訪問(英語)

ハワイ出身の政治学者・教育者(1924年生)

en
ja
es
pt
Roger Shimomura
en
ja
es
pt
ロジャー・シモムラ

戦中の体験を尋ねたときの父の否定的反応(英語)

日系アメリカ人画家、版画家、教授。(1939年生)

en
ja
es
pt
Frank Yamasaki
en
ja
es
pt
フランク・ヤマサキ

ピュアラップ集合センターで失った青年期の能天気さ(英語)

ワシントン州出身の二世。戦時中徴兵拒否。(1923年生)

en
ja
es
pt
Frank Yamasaki
en
ja
es
pt
フランク・ヤマサキ

ほこりだらけのミニドカ収容所の記憶(英語)

ワシントン州出身の二世。戦時中徴兵拒否。(1923年生)

en
ja
es
pt
Frank Yamasaki
en
ja
es
pt
フランク・ヤマサキ

徴兵拒否の決意(英語)

ワシントン州出身の二世。戦時中徴兵拒否。(1923年生)

en
ja
es
pt
Shizuko Kadoguchi
en
ja
es
pt
シズコ・カドグチ

タシュメでの生活(英語)

日系カナダ人二世。池坊トロント支部を設立。(1920年生)

en
ja
es
pt
Paul Terasaki
en
ja
es
pt
ポール・テラサキ

年代による収容所に対する印象の違い(英語)

組織移植・臓器移植の分野においての医療研究の第一人者。(1929年生)

en
ja
es
pt
George Azumano
en
ja
es
pt
ジョージ・アズマノ

真珠湾攻撃後にアメリカ軍から除隊(英語)

アズマノトラベル創設者

en
ja
es
pt
George Katsumi Yuzawa
en
ja
es
pt
ジョージ・カツミ・ユザワ

JACLの全米書記マイク・マサオカの1942年のスピーチへの反応(英語)

戦後ニューヨーク市に移住した二世の花屋。日系アメリカ人の公民権運動で活躍。(1915-2011年)

en
ja
es
pt
George Katsumi Yuzawa
en
ja
es
pt
ジョージ・カツミ・ユザワ

1942年10月の妹の死(英語)

戦後ニューヨーク市に移住した二世の花屋。日系アメリカ人の公民権運動で活躍。(1915-2011年)

en
ja
es
pt