https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1204/
政治活動家(1927-2010)
(英語)収容所で私が一番嫌だったのは屋外便所でした。住居用バラックの棟ごとに置かれ、階段を登って行かなければなりませんでした。用を足すために毎回ステージの上に登るような感覚でしたね。(笑)水道水は飲めず、飲料水用の樽が置いてありました。(水洗)トイレはありませんでした。シャワーはなかったので、シャワーを浴びることもできませんでした。
どんな風にシャワーが使えるようになったか覚えていませんが、よく考えてみると、そうですね、後から付けられたのでしょう。初めて取り付けられた時のことを覚えているので、最初は無かったのだと思います。シャワーが最初についたのは第1ブロックで、皆そこに行って使いました。水はとても冷たく、雪解け水でした。(笑)
シャワーがなかった時はどうしていたのか覚えていません。バケツがあったので、バケツに水を汲んで洗っていたのかもしれません。定かではないです。そういうことは、私の記憶からずいぶん消し去られていますね。(笑)
最初の数週間、数カ月間は、かなり過酷な毎日でした。収容所そのものが大変な場所にありましたし、何しろ物が無かったので、最初の数週間は特に過酷でした。最悪だったのは屋外便所があっただけで、(水洗)トイレがなかったことです。それがとにかく大変でした。下水を通すまで水洗トイレはありませんでしたし、シャワーが無かったのも下水の問題だったのでしょう。
日付: 1998年6月12日
場所: 米国、カリフォルニア州
インタビュアー: ダーシー・イキ、ミッチェル・マキ
提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター
ウィリアム・ホウリ氏は、1927年カリフォルニア州サンフランシスコに6人兄妹の末っ子として生まれました。第二次世界大戦の勃発と同時に、家族と共にカリフォルニア州のマンザナー強制収容所に収監されました。高校を卒業した1週間後、ホウリ氏は強制収容所からウィスコンシン州に移り、ウィートン大学に入学しました。1945年3月、ホウリ氏は、父親に会うため再びマンザナーを訪れましたが、許可証を持たずに来訪したとして身柄を拘束されました。さらに、彼個人に対する立ち退き命令が下され、その日の深夜までカリフォルニア州外へ強制退去させられることになりました。その時、ホウリ氏には銃口が突き付けられていました。 戦後、ホウリ氏は、日系アメリカ人市民同盟(JACL)のメンバーとなりましたが、反戦運動や公民権運動に対するJACLの無関心に失望しました。JACLが、議会の委任を受けて強制収容に関する調査活動に乗り出したことを受け、ホウリを中心とするシカゴとシアトル支部の反対者は、1979年5月、政府による個別補償を求めるため、全米日系アメリカ人市民連盟(NCJAR)を立ち上げました。当初、ホウリ氏とNCJARは、マイク・ローリー下院議員(ワシントン州選出)に個別補償の法案化を依頼しましたが、廃案となったため、ホウリ氏とNCJARは裁判で賠償請求を行うことにしました。1983年3月16日、ホウリ氏と24名の原告団は、政府を相手取り27億ドルの損害賠償を求める複雑訴訟形態の裁判を起こしました。 ホウリ氏は、2010年11月12日83歳でこの世を去りました。(2011年11月)
囚人のように思えた収容所生活(英語)
研究者、活動家(1924-2018年)
制度化されたシステムの悪影響(英語)
1944年の大統領選挙後まで収容所を続けた政治的理由(英語)
徴兵反対者に対する日系コミュニティの反応(英語)
徴兵忌避者(1925年生)
世論に影響を与えるメディアの役割(英語)
徴兵拒否により服役した刑務所での生活環境 (英語)
戦時中の徴兵拒否について子供たちへ伝えること (英語)
「国家への忠義に関する質問」に対する葛藤 (英語)
強制収容に対する日系アメリカ人の反応について(英語)
強制収容の過去について話す母とその感傷的な反応 (英語)
弁護士 (1946年生)
二世が戦中体験を語るきっかけとなった賠償運動の役割 (英語)
テキサス州クリスタルシティーで別人の様になっていた父との再会 (英語)
教師(1937-2021年)
テキサス州クリスタルシティーでの生活環境 (英語)
テキサス州クリスタルシティーで過ごした幼年期の思い出 (英語)
テキサス州クリスタルシティーでの日系ペルー人と日系アメリカ人の関係について思うこと (英語)