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第1800工兵部隊の一員。戦後本田の輸出部にて、アメリカと日本の貿易を促進(1919-2020年)
(英語)第525アメリカ陸軍需品科という部隊が組まれました。政府にとってのトラブルメーカーのような存在は他にも大勢いて、例えばドイツ系、イタリア系、それから僕らのような日系アメリカ人が集められ、第525アメリカ陸軍需品科という部隊が編成されました。部隊の目的は、僕らを一まとめにしておくことだったので、僕らは穴を掘ってそれを埋めるだけ、といった非生産的なことばかりしていました。 その後、我々の兵士としての能力が認められ、上官たちは我々に色々と意見を聞くようになり、僕らはそれに答えていました。でも、僕らは単なる従順な兵士としてただ一生懸命働きました。
その後、我々は工兵第1800大隊として編成させられることになりました。正統な技術作業部隊として、重機を扱い、自分たちの駐留地は自分たちで作り、本格的な橋梁架設工事をするなど、あらゆる工事に従事しました。僕らは、兵卒に格下げされた不適格者として、工兵第1800大隊に配属されたわけですが、その中でそれぞれが責任ある役割を与えられ、兵卒という立場でトラクターを運転したり、あらゆる重機を操縦していました。 僕自身は、しばらくの間ツルハシとスコップを使う作業に従事していましたが、その後、事実上の補給担当、駐車場担当を経て中隊書記担当となりました。そんな訳で、僕は日常的に将校たちとやり取りをする機会がありました。彼らは僕らの立場にかなり同情的で、我々の苦しみを理解していました。
日付: 2005年3月25日
場所: 米国、カリフォルニア州
インタビュアー: ソージン・キム
提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター
セドリック・シモ氏は、1919年に生まれ、ロサンゼルスの多人種が混在する地区ボイルハイツで育ちました。シモ氏は、ボーイスカウト活動や剣道に取り組み、日系人スポーツクラブのクーガースでも活発に活動しました。シモ氏は、カリフォルニア大学バークレー校の大学院に在籍していましたが、真珠湾攻撃の次の日、徴兵令状を受け取りました。彼は、アメリカ陸軍情報部語学学校への配属を希望しました。しかしながら、休暇中にマンザナーに強制収容された母親への訪問を禁じられたことに激怒し、外国戦線への参加を拒否しました。その結果、彼は、工兵第1800大隊に配属されました。この部隊には、疑いをかけられたドイツ系、イタリア系、日系人が配属され、戦闘隊が訓練中に壊した道路、橋、フェンスの修復工事にあたりました。シモ氏は、工兵第1800大隊を名誉除隊した後、ボイルハイツへ戻り、ホンダに就職し、輸出担当部門で副代表となりました。 2008年11月20日、日本政府は、日米貿易摩擦が問題となった時期、当時ホンダで働いていたシモ氏が、両国間の貿易推進に寄与したことを評価し、旭日双光章を授与しました。
2020年4月、100歳で亡くなりました。(2020年4月)
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第二次世界大戦・朝鮮戦争の退役軍人 (1919 - 2006)
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(1933-2014) 日系アメリカ人アニメーター
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日系アメリカ人の避難 (英語)
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