Laura Honda-Hasegawa

Laura Honda-Hasegawa was born in Sao Paulo, Brazil in 1947. She worked in the education field until 2009. Since then she has dedicated herself to exclusively writing which is her great passion. She writes essays, short stories, poems, and novels, all under a Nikkei lens.

Updated September 2018

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Nikkei Chronicles #2 — Nikkei+ ~ Stories of Mixed Language, Traditions, Generations & Race ~

ジュリアのJAPÃO発見

母方の祖父母は100年前、日本からブラジルへ移住して来ました。サンパウロ州のファゼンダ1で筆舌に尽くし難い苦労をして、やっと、念願の農園を手に入れました。10人の子どもはブラジルで生まれましたが、ポルトガル語は十分に話せず、家で使うのは日本語でした。子どもたちは日系一世・二世と結婚し、生涯パラナー州で暮らしましたが、母だけが、結婚と同時に、サンパウロ市に住みました。

父方の祖父母も同様に、100年前にブラジルに移住して来ました。家族は、夫婦と3人の子どもで、船旅の途中で父の妹が生まれ、そのあと、ブラジルで父の弟も生まれました。祖父は、最初はサンパウロ州のファゼンダで働きました ...

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デカセギ・ストーリー

第十一話(前編) クレイトは、もうサンバは踊らない

風がびゅーびゅー吹き荒れていた夜、クレイトは1時間前に出たダンススクールに戻った。そこのオーナーの明石トムは、ちょうどその頃、パープル色のドレスの女性に誘われ、横丁の「ルナ」で楽しそうに飲んでいた。

細長い階段を下りると、古びた木のドアを開け、薄暗い大広間を通り過ぎ、奥にある事務所に入って行った。手探りで金庫を探り当てると、あとは暗証番号は以前から知っていたので、スムーズに開けることができた。中を見ると、片手に持てる大きさの箱があった。それをジャンパーの中に隠し、素早く、そこから出て行った。

横丁の「ルナ」の3軒手前の「スバル」でパープル色のドレスの女性を待つことにしていたが ...

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デカセギ・ストーリー

第十話 キミコの再出発

100年以上前にブラジルに渡った移民たちは、いつかは日本に戻れると思っていた。1980年代から日本に行き始めた逆デカセギのほとんども、いつかはブラジルに戻れると信じていたのだろう。しかし、世の中はそう甘い物ではなかった。いろいろな事情があって、一度帰国したあと、再び日本へ行くデカセギが少なくなかった。キミコもその1人だった。

「元気を出して!かあさん。仕方ないさ」

息子のアレックスに声をかけられ、キミコは、はっとした。「ここは確かにブラジルだ。そして、私はやっと戻って来たのに、なんでまた日本に行かなくちゃいけないの?」

キミコは信じられなかった。1988年に日本に行き、なるべく早く帰れるようにと願いながら一生懸命働き、ようやく帰国したのは、2年後の1990年のことだった ...

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デカセギ・ストーリー

第九話 サクラの花の咲くころ

真司とリンダは子どものころの友だちだ。と言っても、同じ学校に通ったこともなく、同じ公園で遊んだこともなかった。

真司は6歳のとき、お父さんの仕事の関係でブラジルに住むようになった。

お母さんは元ピアニストだったので、すぐにピアノ教室を開いた。生徒は日本企業の駐在員の子どもたちだった。

真司はアメリカンスクールに通っていた。その上、習い事もたくさんしていた。英語、バイオリン、チェスの教室などだ。

ある日曜日、お母さんはピアノのコンサートへ、お父さんはゴルフ場へ行くので、真司はどっちについていくか選ぶように言われた。「パパといっしょに行きたい」と、真司は、はっきり言ったので、ふたりともびっくりした。

ゴルフ場の帰り ...

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デカセギ・ストーリー

第八話 カーニバルの悲しい出来事

私は日系二世の70歳のおばちゃんです。昔からカーニバルにはあまり興味がありませんでした。カーニバルとはブラジル人にとって、年に一度の楽しみだとしか思っておらず、「ブラジル人ではない」と認識している私には関心がなかったからです。しかし、当時から日系人会では「バイレ・デ・カルナバル」というカーニバルのダンスパーティーが開かれ、日系の若者たちも楽しむようになっていました。私も友だちと一緒に行ったことがありましたが、特別な思いはありませんでした。

24歳で結婚した私は4人の子どもに恵まれました。長女は学校の先生になって公立中学校に勤めていましたが、給料が少ない上に、学校がスラム街の側だったので、勤務するのがだんだん危険になり、辞めてしまいました。ちょうどその頃、日系人の間に、デカセギブームがあり、すぐ日本に働きに行くことになりました ...

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