南米の日系人、日本のラティーノ日系人

日本在住日系アルゼンチン人のアルベルト松本氏によるコラム。日本に住む日系人の教育問題、労働状況、習慣、日本語問題。アイテンディティなど、様々な議題について分析、議論。

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2021年パラグアイCOPANI ~ 私の願い-その2

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ここ数年、多くの日系リーダーはCOPANI大会の疲労を口にしている。詰め込みの講演や分科会オンパレードを指摘する人も多く、内容だけでなく時間的余裕や特徴ある発表を望んでいる。ときには開催国の重要課題について他の国の関連事例を取り上げたり、専門家の意見を伺う機会を持つことも必要かもしれない。基調講演は日系人である必要もないし、トピックを絞って様々な世代を交えて議論するのもいいだろう。

多くの大会では若者「ユース」の部門があり、若者同士で意見交換する機会を提供している。しかし、若者だけのワークショップでは大会の成果は半減してしまう。そのような場にこそ、各国のベテラン指導者にも参加してもらい、彼らと共に話をし、時には助言をもらい、世代を交えて正面から議論することが良いと思われる。若者もそれを求めているに違いないが、遠慮もあるし、そのアプローチを間違えると意見の食い違いが深まり排他的は関係になってしまうリスクがあるので注意しなければならない。

リマ大会では、若者のゲーム式の分科会に参加した ...

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2021年パラグアイCOPANI ~ 私の願い-その1

第1回目のCOPANI(Convención Panamericana Nikkei パンアメリカン日系人大会)は1981年にメキシコシティーで開催され、昨年9月にはサンフランシスコで第20回大会が行われた。ここまでCOPANIが続けられた背景には、創設者の一人でメキシコの日系二世、実業家のカルロス春日氏の貢献は無視できないだろう1。北米でCOPANIが開催されたのは、1989年のロサンゼルス大会、2001年のニューヨーク大会、2005年のバンクーバー大会に引き続き今回で4回目で、アメリカ合衆国では3回目の開催であった。サンフランシスコ大会には、少ない実行委員ながらも、約250人が参加した。15年ぶりの北米での開催ということもあり、サンフランシスコのコミュニティ紙『日米ウィークリー』は大会の詳細をとりあげた2 ...

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二世代目以降の「県人会」と今後の架け橋としての役割

近年、南米の日本人移住者と出身県との交流ツールだった「県人会」の形態や役割が変わってきた。戦前は、同郷の人が集まり限られた情報を交換する場であり、残された家族との連絡を橋渡しする機関であった。戦後になると各県からの助成を得て運営する県人会も増え、特に日本が経済大国になった70年代から90年代ぐらいにかけては、各県の助成金をもとに日系二世や三世の短期研修や農業後継者育成や中期留学を援助したり、高齢移住者の里帰り支援や県の若者南米派遣交流事業を展開する県人会もでてきた。移住先では、農村部や都市部にかかわらず、県人会は仲間を助け、親睦を図ってきた。

JICAや研究者の統計によると、戦前だけでもハワイを含むアメリカ大陸には65万人の日本人が移住しており、都道府県別にみると、広島(96,848)、沖縄(72,227)、熊本 ...

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「コラボラドーレス会議2018」とブラジル地方の日系社会訪問

2018年8月末、厚生労働省の招へいでブラジルのサンパウロで開催された「コラボラドーレス会議:現代の日本〜在日ブラジル人の日本社会への統合」という国際シンポジウムに出席する機会を得た。私はこの会議に参加するのを機に、地方の日系コミュニティも訪問した。

「コラボラドーレス会議」は、日本政府が1990年代に設置したブラジル人日系就労者をサポートするために設立されたCIATE1(国外就労者情報援護センター)が毎年企画している会合である。ブラジル人やペルー人が就労目的で来日し始めてから30年、現在日本に在留しているブラジル人は19万人、ペルー人は4万8千人で、そのほとんどがすでに定住している。しかし、他の国の日系人より日本社会への統合があまりスムーズでないケースもあり、未就学になっている子弟や低い高校進学率という教育問題が指摘されている。そのため、今回は特に日本各地の集住地区に在住しているブラジル人の社会統合が十分でないという問題意識からのシンポジウムであった。

この会合には著名な専門家やブラジル外務省の高官、元就労者 ...

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平成時代の日本と定着した南米日系就労者たち

2019年、この日本では「平成」が終わり「令和」という元号になった。31年にわたる平成時代は、南米から渡日した日系就労者の歴史とほぼ重る。1980年代後半のバブル期は、製造業界における深刻な人手不足問題を解決するため、政府は入管法を改正し南米からの日系二世や三世及びその配偶者が日本で制限なく働けるようにした。当時、多くの中南米諸国では経済が低迷し、失業率も貧困率もかなり高く、80年代のペルーではゲリラによるテロ活動が起きていた。私の出身国アルゼンチンでは年間5千パーセントというハイパーインフレが発生し、現地通貨ペソでの平均月給がドル換算で250ドル前後だったことを覚えている。そして、ブラジルやペルーの平均月給はもっと低かったのである1

一方、90年代前半の日本はバブル最盛期からその陰りが出始めたころだったが、我々にはその予兆さえ全く感じられなかった。私は1990年4月に国費留学生として来日したが、アルゼンチンでは感じたことがないすごい好景気にあると思ったことを記憶している ...

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