ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/972/

賠償から補償への変更(英語)

(英語)僕は、そもそも「賠償(リパレーション)」という言葉は好きではありませんでした。「賠償(リパレーション)」は、戦争と直結して聞こえるのです。戦敗国は、戦勝国に常に何らかの賠償をしており、戦争に負ければ、戦争賠償が課せられます。でもこれは、戦争ではないと思っていました。「賠償」という言葉は嫌でした。「補償」の方がずっと相応しいと思いました。興味深いことに、シアトルのグループは既に「賠償」ではなく「補償」という言葉を使っていました。そして僕も「補償」の方がずっといい言葉だと思いました。1977年と1978年にいくつか記事を書いたのですが、その中の1つでこのことについて触れ、今後は「賠償」ではなく「補償」とする、と書きました。


政府 政治 リドレス運動

日付: 1998年7月1・2日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: ミッチェル・マキ、ダーシー・イキ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

クリフォード・ウエダ氏は、1917年1月14日、ワシントン州オリンピアの牡蠣養殖業者の家庭に生まれました。1941年から1945年にかけてウィスコンシン大学で学び、その後、ルイジアナ州ニューオーリンズのチュレーン大学医学部に進学しました。ウエダ氏は、カリフォルニア州サンフランシスコで医師となりました。

ウエダ氏が日系アメリカ人市民同盟で活動を始めたのは、1960年にサンフランシスコ支部で一世のオーラル・ヒストリー・プロジェクトの座長を務めたことがきっかけでした。ウエダ氏は、サンフランシスコ州立大学でエスニック・スタディーズの専門学部の立ち上げに貢献した他、「東京ローズ」として知られるアイバ・トグリ氏が、大統領恩赦を得てアメリカ国籍を回復するための支援者のひとりとして、重要な役割を果たしました。

1975年、医師を引退したウエダ氏は、フルタイムの活動家に転身しました。1977年、ウエダ氏は、全米JACLの代表として日系人強制収容に対する賠償運動に参加し、1978年から1980にはJACL会長となりました。様々な役割を通してコミュニティに貢献してきたウエダ氏は、2004年、84歳で癌のため亡くなりました。(2008年4月11日)

ノーマン・ヨシオ・ミネタ

最後のハードル、レーガン大統領 (英語)

アメリカ合衆国元運輸長官(1931年生)

エヴェリン・ヨシムラ

共通点 (英語)

コミュニティ・アクティビスト

エヴェリン・ヨシムラ

『Gidra』の背景を理解 (英語)

コミュニティ・アクティビスト

エヴェリン・ヨシムラ

『Gidra』の内容 (英語)

コミュニティ・アクティビスト

ローズ・オチ

立ち上がり、挑戦すること(英語)

日系アメリカ人弁護士・公民権運動アクティビスト(1938-2020年)

ローズ・オチ

公聴会(英語)

日系アメリカ人弁護士・公民権運動アクティビスト(1938-2020年)

ジミー・ムラカミ

補償金について(英語)

(1933-2014) 日系アメリカ人アニメーター

カズム・ナガヌマ

彼の妹は家族のために賠償金を確保した

クリスタル・シティに収容された日系ペルー人(1942年生)