https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/385/
日系アメリカ人画家、版画家、教授。(1939年生)
(英語)ある日私は父に、「僕らが強制収容所で経験したことって、一体何だったんだろう?」と問いかけたことがありました。父にそう尋ねた時、私は自分がどの言葉に置き換えてそう言ったのか、よく覚えています。すると父は、すごい勢いで怒り出したのです。父にとってそのことは、もう話題にするべきことではなく、私たちはずいぶん長い間その話をしてこなかったので、一家の記憶から完全に消えるているはずだと思っていたのでしょう。私がその話を持ち出したことが、父をどんなに怒らせたかよく覚えています。そして父は、「そんな話をする必要はない。私たちはそんなこと忘れたいのだし、みんな忘れようとしているんだ。二度とその話はするな」と言いました。話はそれだけでした。それ以上、何も言うことはなかったんです。父はとても強い調子でそう言っていたので、私は二度とその話を持ち出すことはありませんでした。
でも、実は私が高校生だった時、ある出来事がきっかけで私たちは再びその話をすることができたのです。それは確か日系人への補償が確定した頃、70年代後半になってからでした。でもそのことを再び話題に上らせるには、父なりに彼自身の中で許可が必要で、自分が話す前に他の人たちが話していることを確認しなければならなかったんです。
日付: 2003年3月18・20日
場所: 米国、ワシントン州
インタビュアー: アリス・イトウ、マユミ・ツタカワ
提供: Denshō: The Japanese American Legacy Project.
ロジャー・シモムラ氏の絵画・版画・舞台作品はアジア系アメリカ人の社会政治的な問題を題材にしています。これらの作品の多くは移民として渡米した故祖母が56年間にわたって綴った日記からアイデアを得ています。自作の絵画・版画の個展を100展以上も開催しており、ニューヨークのフランクリン・ファーネス、ミネアポリスのウォーカー・アートセンター、ワシントンDCのスミソニアン協会国立アメリカ歴史博物館などを拠点とし実験的な舞台作品を紹介してきました。また、教育者としても広く認められており、カンザス大学で特待教授(Distinguished Professor)になりました。さらに、アメリカ美術史学会は、4年間に渡る全米12の博物館で開催された巡回展『アメリカン・ダイアリー』の功績を称え、2001年に最優秀芸術作品賞を授けました。
シモムラ氏個人の書類などはスミソニアン協会アメリカン美術古文書館に保管されています。また、ニューヨーク.、シカゴ、カンザス市、マイアミ、シアトルのギャラリーで彼の作品を見ることができます。
*全インタビューはDenshō: The Japanese American Legacy Projectにて見ることができます。
10代での収容所生活 (英語)
(1926 - 2012) 文化人類学者。学問として民族研究学科を設立した第1人者
白人と同じ権利を求めて(英語)
公民権運動の政治活動家(1922年-2014年)
立ち退き命令を知らないカリフォルニア人(英語)
集合センターの状況(英語)
E・スタンリー・ジョーンズによる集合センターの訪問(英語)
隠蔽されたキャンプでの出来事(英語)
仕事熱心な一世(英語)
逮捕された父(英語)
収容所のポジティブな側面(英語)
父に教えられた収容所の写真の重要性(英語)
写真家・ビジネスマン。
JACLとの関わり(英語)
「アメリカ生まれの日本人」・元ビジネスマン。(1935年生)
収容所の補償運動の達成と教育(英語)
(1919 - 2014年)日系アメリカ人の強制収容所に対する補償運動や公民権運動で活躍した活動家。
集合センターでの職探し(英語)
カリフォルニア出身の二世。第2次大戦中は、MIS(陸軍情報部)としてメリル襲撃隊にて活躍。(1913年生)
アーカンソー州にあるジェローム転住センターへ汽車による移動(英語)
強制移住(英語)
ワシントン州出身の二世。ツーレレイク強制収容所へ収容後、シカゴへ再転住。(1909年生)