ディスカバー・ニッケイ

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工場労働者から自分のビジネスを持つまでの道のり(ポルトガル語)

(ポルトガル語)日本で3年ぐらい工場で働いたけれど、「毎日同じようなこをやって、これでいいのか」って、私には将来性が見えなかった。そんな時、店を営んでいた友人が突然「バイトしないか?」と尋ねてきたんだ。いいチャンスだと思ったので、私はやってみることにした。そして、工場で働くかたわら、夜は友人のワゴン車にブラジルの品物を乗せて、工場やその寮の前で売り始めた。でも、工場の仕事と販売の両立はきつくなったので、工場の方を辞めてしまった。

友人の誘いのおかげで、私はトラックにブラジル商品を乗せていろいろな県を回ったよ。最初の頃はお客さんが少なかったので、私はお客さんを増やすことを願いながら働いたんだ。

これを続けていくうち、ようやく東京で仕事をする機会を得たんだ。このチャンスを与えてくれて力になってくれたのがBanco do Brasil(ブラジル銀行)。銀行の前にトラックを停めて営業を始めたから、ここまで発展できたんだ。ブラジル大使館もトラックを停める許可を出してくれた。

おかげ様で商売は順調に進んだよ。ブラジル銀行やブラジル大使館の前に居ると、「うちの寮にも行ってくれないか?」と通りかかった人によく言われたんだ。おかげで客が増えたので、本当によかったと思うよ。

それから危機が来たでしょ?友人は商売をやめてしまったけど、サイトは私が引き継いで今でもやっている。何年か後には、大泉町で店を開くことになったんだ。


ビジネス デカセギ 経済学 外国人労働者 経営 在日日系人

日付: 2016年10月19日

場所: 日本、群馬県

インタビュアー: 小嶋 茂

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

アントニオ・シンキチ・シコタは1962年9月12日サンパウロ州カンピナス市に日本生まれの両親の元生まれた。友人に誘われ、来日した。工場で働き始め、日本の暮らしにすぐに馴染んだので日本に居ることにした。ブラジル商品を移動販売する会社を立ち上げ、現在は群馬県大泉町に住んでいる。移動販売では、いろいろな商品を、特に日系人の客に直接販売している。大泉町の暮らしが気に入っている。(2018年2月)

阪根 博

天野芳太郎の南米進出

天野博物館事務局長(1948年生)

阪根 博

研究のためにビジネスに力を入れた天野芳太郎

天野博物館事務局長(1948年生)

田岡 功

パラグアイからのデカセギ者の現状

パラグアイ駐日大使(1943年生)

恩智 敏子 エレナ

デカセギ者としての移動によっておこる家庭崩壊(スペイン語)

在日日系ペルー人

ハルノリ・オダ

アメリカ生活の始まり(英語)

新一世実業家 (1927-2016年)

ハルノリ・オダ

園芸ビジネスを学ぶ(英語)

新一世実業家 (1927-2016年)

ハルノリ・オダ

造園業から園芸場経営へ(英語)

新一世実業家 (1927-2016年)

ハルノリ・オダ

事業の拡大(英語)

新一世実業家 (1927-2016年)

ハルノリ・オダ

次の段階(英語)

新一世実業家 (1927-2016年)

ハルノリ・オダ

人生哲学(英語)

新一世実業家 (1927-2016年)

ジミー・コウ・フクハラ

家族経営の種苗会社(英語)

日系二世、連合国軍占領下の日本に駐留した退役軍人(1921年生)

ジミー・コウ・フクハラ

除隊と種苗業の再開(英語)

日系二世、連合国軍占領下の日本に駐留した退役軍人(1921年生)

パウロ・イサム・ヒラノ

デカセギに来ていた父に呼び寄せられ日本へ移住

(1979年生)群馬県大泉町在住の日系ブラジル人三世。デザイン事務所経営。

パウロ・イサム・ヒラノ

日本に移住して苦労したこと

(1979年生)群馬県大泉町在住の日系ブラジル人三世。デザイン事務所経営。

パウロ・イサム・ヒラノ

デカセギから定住へ

(1979年生)群馬県大泉町在住の日系ブラジル人三世。デザイン事務所経営。