ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1286/

スタッフと苦闘(英語)

(英語)僕ら中心メンバーがギドラを運営していましたが、自由な人の流れがあり、来る者も去る者もいました。1、2ヶ月手伝って辞める人や、夏だけ働きに来る若者もいました。でも、そういった全てのことから、僕らは多様性だけでなく活力も得ていました。それは、全てを網羅する経験のようでした。ですから、新聞の中身を超えて、僕が思うに、前にも言いましたけれど、僕らは皆今でも友達です。仲間意識があるんですね。毎日朝の4時、5時まで寝ずに、怒鳴り合ったり叫んだりしながら共に苦闘し、何かを作り上げていました。つまり、本当の結束は、試練があってこそだと思うのです。

第442連隊戦闘団が今でも皆で集まっているのも同じ理由です。彼らには苦闘という共通の経験がありました。強制収容所に収容された人々も苦闘という経験を共にしていました。僕らの体験をその2つと同列に扱うことはできませんが、僕らは僕らなりに、互いの違いに妥協点を見出しながら、ご存知のとおり、より大きな運動に貢献したいという想いで結束していました。


アイデンティティ 新聞

日付: 2011年9月29日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: クリス・クロミツ、ジョン・エサキ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

マイク・ムラセ氏は、弁護士、活動家、行政官、作家、写真家であり、福祉や社会変革活動、教育、行政、政治に40年以上にわたり携わってきました。カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)の学部生時代には、アジア系アメリカ人研究センター(アジアンアメリカンスタディセンター)の立ち上げメンバーとなり、その後、UCLA、南カリフォルニア大学、カリフォルニア州立大学ロングビーチ校で民族学(民族研究)を教えました。

マイクのアジア系アメリカ人コミュニティとの関わりは深く、リトルトーキョー・サービスセンター(LTSC)の立ち上げに中心メンバーの1人として携わりました。このセンターは、リトルトーキョー、ひいてはロサンゼルス全体の日系アメリカ人コミュニティの社会福祉や地域経済発展のために設立され、マイクは、最初の5年間センター長を務めました。また、彼は、日系福祉権協会、リトル・トーキョー人権協会、補償を求める全国連合(NCRR)といった団体を支持し、著書には、「Little Tokyo: One Hundred Year History」があります。2006年、マイクはLTSC運営チームの一員としてセンターに戻り、現在サービスプログラム部門長を務めています。(2012年8月)

サワコ・アシザワ・ウチムラ

いくつかの生い立ちを持ったユニークなアイデンティティ(英語)

フィリピン生まれの引揚者、後にアメリカに移民(1938年生)

ロバート・T・フジオカ

日系人としてハワイで育つ(英語)

ハワイ生まれの元銀行幹部職員(1952年生)

キシ・バシ

日本人でもありアメリカ人でもある(英語)

音楽家、作曲家、ソングライター(1975年生) 

キシ・バシ

両親は新一世(英語)

音楽家、作曲家、ソングライター(1975年生) 

ミシェル・ヤマシロ

ペルー系沖縄人としての両親のアイデンティティ(英語)

ペルー出身の両親を持つ沖縄系アメリカ人

ミシェル・ヤマシロ

沖縄文化の理解(英語)

ペルー出身の両親を持つ沖縄系アメリカ人

ミシェル・ヤマシロ

本州の人々の沖縄人に対する偏見(英語)

ペルー出身の両親を持つ沖縄系アメリカ人

ミシェル・ヤマシロ

共感する米国的な価値観(英語)

ペルー出身の両親を持つ沖縄系アメリカ人

ミシェル・ヤマシロ

三か国語を使った沖縄での活動(英語)

ペルー出身の両親を持つ沖縄系アメリカ人

ミツエ・ヤマダ

詩を通して自分を表現(英語)

帰米二世、詩人、活動家(1923年生)

ファン・アルベルト・松本

エスコバールについて(スペイン語)

日本在住の日系アルゼンチン人、二世(1962年生)

モニカ・タイシャ―

ニッケイの定義(英語)

米国在住の日系コロンビア人(1974年生)

サブリナ・シズエ・マケナ

カミングアウトが家族に与えた影響

(1957年生まれ) ハワイ州最高裁判所判事。