ディスカバー・ニッケイ

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フュージョン料理

ペルー料理と日本料理の共通点っていうのは、要するに中国人とか日本人が携わった、要するに100年ぐらい前から融合した料理が、もういっぱいあるわけ。西洋料理っていうのは、炒め物っていうのはないのね。ここはね、炒め物は昔から。今でこそ、世界的にねWokってね、炒め物が流行ってるけど、ここはもう、昔からロモサルタードっていうね、炒め物があってね。これは要するに、アジアの文化だよね。 それからもう一つはね、ペルー人も持ち味を大切にする。これはね、日本人と同じなんですよ。要するに、ソースの味で飯を食うんじゃなくて、材料の味で料理を食べる。これは日本料理と全く似てますね。

うん。 うーん。だから、新しい材料があったりすると、まず味を見て「あぁ、これやったらこういう料理も合うんじゃないかなぁ」と。これもやっぱり現場主義だから、本で見た料理じゃ、絶対フュージョンは生まれないのね。自分で食べてみて、これで試してみて、それでフュージョンって生まれるわけです。だから、「フュージョンってどうして生まれますか?」って言うと、これは自分で試してみるしかないと。これだけの話ね。だから、いい材料が手元にあればいい。


料理 料理 (cuisine) 食品 多国籍料理 ペルー

日付: 2007年4月18日

場所: ペルー、リマ市

インタビュアー: アン・カネコ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

1953年7月11日、宮崎県西都市の老舗和食料理屋の4代目の息子として生まれる。6歳のころからレストランの厨房で遊んでいた小西氏は、11歳の時修業のため他の料理人候補たちと共に厨房の手伝いをするようになる。その後、16歳で上京し、1971年に料理屋「ふみ」のシェフになる。

1974年、アメリカや日本などで和食創作料理で知られている「NOBU」のオーナー松久信幸と共にペルーへ移住。「Matsuei」という和食レストランで10年間シェフを勤めた後、リマ市内のシェラトンホテルで「Wako」と「Toshiro’s」を開店。2002年には、サンイシドロ地区にある「Sushi Bar Toshiro’s」のマネージャーも勤めるようになる。

レストラン経営の傍ら、San Ignacio de Loyola大学でも教鞭を執っったり、世界各国の料理フェスティバルへも参加し、創作料理「ペルービアン・フュージョ ン」(日本とペルーの創作融合料理)を紹介し、数々の表彰を受ける。2008年には、ラテンアメリカに定住している日本人シェフでは始めて、日本政府より農林水産大臣表彰を受賞した。(2009年10月)

ペギー・ニシムラ・ベイン

アメリカ料理を身につけたきっかけ(英語)

ワシントン州出身の二世。ツーレレイク強制収容所へ収容後、シカゴへ再転住。(1909年生)

ベナンシオ・シンキ

同胞の援助と協力 (スペイン語)

日系ペルー人画家 (1932-2016年)

ウェイン・ヨコヤマ

唯一の日本文化:食べ物(英語)

南カリフォルニア出身の在日日系人(1948年生)

ベナンシオ・シンキ

日本式の教育 (スペイン語)

日系ペルー人画家 (1932-2016年)

ベナンシオ・シンキ

日本語学校の閉鎖と日本人の強制送還 (スペイン語)

日系ペルー人画家 (1932-2016年)

アルフレド・カトウ

アイデンティティ: 日本人 vs. ペルー人(スペイン語)

ジャーナリスト(1937生)

アルフレド・カトウ

第2次大戦中、山中の小さな村へ避難(スペイン語)

ジャーナリスト(1937生)

アルフレド・カトウ

戦後リマでの体験談(スペイン語)

ジャーナリスト(1937生)

ビンス・オオタ

アジア系とのかかわりをあまり持たずに東海岸で育つ(英語)

在日日系アメリカ人デザイナー

マーガレット・オダ

家族の食卓の思い出(英語)

(1925 - 2018)ハワイ出身の教育者、二世

ルイス・ヤマダ

戦時中の苦難(スペイン語)

二世日系アルゼンチン人 (1929年生)

ベナンシオ・シンキ

戦時中身を隠していた父 (スペイン語)

日系ペルー人画家 (1932-2016年)

アキラ・ワタナベ

ペルー支部祭り太鼓のはじまり (スペイン語)

ペルーの琉球祭太鼓のディレクター(1974年生)

アキラ・ワタナベ

技術的な側面を超える『気持ち』 (スペイン語)

ペルーの琉球祭太鼓のディレクター(1974年生)

ピーター・ミズキ

日本食の有難さ (英語)

在日三世・剣道家