ディスカバー・ニッケイ

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日本での学校生活

あの小学校の生活、1年2年の頃には、まあ他の連中と遅れていますから、やっぱりある程度馬鹿にされましてね。「おい、アメリカ!」なんつって、みんなにからかわれたりね。仲間にもやっぱりされなかったり・・・ま、そういうこともありましたけどもね。たまたま、小学校の3年生の頃に相撲大会がありましてね。この相撲大会で、この私がどういうわけか、とにかく一番最後まで残って優勝したわけなんです。そうしましたらね、急にその私の株が上がって(笑)。それでみんなの仲間に入れてもらって、みんなと一緒にベースボールもやるし、バレーボールもやるし、友達もあるグループに入れてもらったり。それからが一番楽しかったです。はい。3年生頃だったと思いますがね。


教育 日本 スポーツ 相撲 (sumo) レスリング

日付: 2008年6月17日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: 西村 陽子

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

ヘンリー・榮一・須藤氏は、1928年2月5日一世の両親のもと、ノースダコタ州ミノットに生まれました。父親と妹が亡くなった後、母はヘンリーと弟を連れて日本へ帰国しました。当時7歳のヘンリーは、ほとんど日本語がわからなかったため、クラスメイトに溶け込もうと必死に日本語の勉強をしました。17歳の時、教員より日本軍への志願を勧められ、また、経済的理由からも大学進学は難しいという判断から、軍に志願することにしました。基礎的なトレーニングを終えて、須藤氏は、スペシャルユニットとして、34人の学生の1人に選ばれましたが、人間魚雷による自爆攻撃ユニットであることは知らされていませんでした。広島に原爆が投下された時、須藤氏はこのユニットにいたため、原爆投下の36時間後には救護兵として広島に到着していました。彼は、広島へ救護に向かった最初の兵士の1人でした。

戦後、須藤氏は合衆国へ戻りました。母親が亡くなってからは叔父と暮らし、ベルモント高校へ入学しましたが、その3カ月後、朝鮮戦争に招集されました。通訳になるためにパーマー基地で韓国語を学び、朝鮮半島の第一線で尋問員となる予定でしたが、日本を通過した際に、日本で通訳となるよう要請を受けました。

陸軍から退役した須藤氏は、ロサンゼルス・シティ・カレッジで貿易を専攻し、オタギリ社に入社し、1993年の退職まで働きました。

須藤氏は、2008年10月17日、80歳で他界しました。(2009年1月30日)

デール・ミナミ

コレマツ裁判が現代社会に与えた影響 (英語)

弁護士 (1946年生)

ロベルト・ヒロセ

日本の習慣(スペイン語)

二世日系チリ人、ビジネスマン(1950年生)

赤間みちへ

ブラジルに日本様式の女学校を開校

一世。ブラジル女性教育の先駆者

ポーラ・オヨス・ハットリ

祖父を理解するために日本語を勉強 (スペイン語)

日系アルゼンチン人、三世

高木一臣

スペイン語の学習(スペイン語)

『らぷらた報知』ジャーナリスト (1925-2014年)

ルイス・ヤマダ

日系人としての誇り(スペイン語)

二世日系アルゼンチン人 (1929年生)

西村 俊治

農工学校を通じてノウハウを次世代へ

JACTOグループ創設者 (1911-2010)

木下正夫

苦学生としてのサンパウロでの生活

負け組みの主要メンバー

ベナンシオ・シンキ

日本語学校での偏見 (スペイン語)

日系ペルー人画家 (1932-2016年)

ベナンシオ・シンキ

日本語学校の閉鎖と日本人の強制送還 (スペイン語)

日系ペルー人画家 (1932-2016年)

二木秀人

ポルトガル語の試験

一世教育者(1911年生)

二木秀人

ブラジルでの日本語教育

一世教育者(1911年生)

ジョニー・モートン

日本語学校 (英語)

プロアメリカンフットボール選手。(1971年生)

ピーター・アイロンズ

強制収容を知る (英語)

戦時中の裁判の再審要求を担当した弁護士(1940年生)

ジョージ・ヨシダ

アメリカ社会への同化 (英語)

音楽家 (1922年)