Ryusuke Kawai

ジャーナリスト。慶應大学法学部卒。毎日新聞記者などを経て独立、ノンフィクションを中心に執筆。『大和コロニー「フロリダに日本を残した男たち」』(旬報社)、『「十九の春」を探して』、『122対0の青春』(共に講談社)など著書多数。日系2世の作家、ジョン・オカダ著『No-No Boy』の翻訳を旬報社より出版。『大和コロニー』は、「Yamato Colony: The Pioneers Who Brought Japan to Florida」として、University Press of Floridaより英語版が出版。

(2018年3月 更新)

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「米國日系人百年史」を読み直す~パイオニアたちの記録をたどって

第3回 移住、被爆体験、平和運動へ ~ ジャーナリスト、加藤新一の仕事(下)

第2回 「加藤新一の仕事(上)」を読む >> 

新日米新聞社の編集主幹として「米國日系人百年史」を取材、執筆、編集した加藤新一は、太平洋戦争を挟んで日米を行き来して生涯を終えた。アメリカに対する思いは被爆体験からすれば複雑だったはずだが、アメリカの民主主義を評価し移住した日本人・日系人の足跡を記録、後半生は平和運動に尽力した。

加藤は1900(明治33)年9月広島市に生まれる。1916(大正5)年、修道中学1年のとき、すでにカリフォルニアのフレスノでブドウ栽培をしていた父親に呼び寄せられ、現地のハイスクールに通った。23年に父親は帰国するが加藤はロサンゼルス郊外のパサデナに落ち着いた。

1925年に羅府新報に入社 ...

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「米國日系人百年史」を読み直す~パイオニアたちの記録をたどって

第2回 全米を9ヵ月、4万マイルにわたり取材 ~ ジャーナリスト、加藤新一の仕事(上)

1961年末にロサンゼルスの新日米新聞社より出版された1431ページにおよぶ「米國日系人百年史」のあとがきを「編者」として、取材、執筆にもあたった加藤新一がまとめている。

そのなかで加藤は、「戦後は米本土の殆ど全域に及ぶ米國日系人の歴史を、今にして誰かが綴り残さなくては、日本民族が、この北米大陸に苦闘を重ねて築いた貴い『百年』の歴史を湮滅することを恐れた」と、使命感を示している。

また、どのような出版物にするかについては「百年の奮闘報告書」として、日本へ向けて日系人の歴史を残し、かつ将来誰かが綴るであろう英文による「在米日系人史」の資料として次世代に残すということを主眼にしたという。

こうした意図のもとに ...

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「米國日系人百年史」を読み直す~パイオニアたちの記録をたどって

第1回 日米修好100年を記念しまとめた1431ページ

日本からアメリカ本土への最初の移民からすでに150年ほどが経つ。いま、初期の移民1世は鬼籍に入り、2世の謦咳に触れることも少なくなった。危惧するのは世代を経るにしたがって、言葉の壁もあってパイオニアである1世の記録が遠くなり忘れ去られていくことである。

日本とアメリカを生き、結果として橋渡しをした1世の人生は、日系人と日系社会の原点であり、大いなる冒険者としての記録でもある。その意味で、いまここで1世たちの足跡を振り返ってみる。その方法はいろいろあるだろうが、私は一冊の大著「米國日系人百年史」を読み直し、そこに紹介された一世たちの姿をこの連載のなかで紹介していきたい。

その前に、本書の成り立ちと内容について記そう。

1860年、江戸幕府が遣米使節団を送りホワイトハウスで日米修好通商条約の批准書が交換された。それから100年後の1960年、日米修好100年を記念し日米双方で政府をはじめ民間レベルでもさまざまな行事が行われその歴史が検証された。

14年の短命のなかで「新日米新聞社 ...

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テキサスに夢をみた100年前の日本人: 米作ブームを機に野菜栽培、そして油田も ~その4/4

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メキシコ国境に描いた夢

100年以上前のアメリカへの日本移民、特に入植地を求めるような人たちの足跡を調べると、よりよい場所や機会を求めて地域や州を越えて大胆な移動をしていることが分かる。また、通信手段の乏しいなかで、情報交換もかなり行われていたようだ。

今日からすればこんな所へもチャンスを求めて入植したのかと思える場所がある。テキサス州のなかでは、メキシコ国境に沿って流れるリオグランデ川がメキシコ湾に注ぐあたり一帯は、地図上で見る限り国境にも近く意外な入植地だ。

しかし、土地は肥沃でサトウキビが早くから栽培された。20世紀の初めにはヒューストンから鉄道が伸び、灌漑設備ができると農地として注目されて野菜栽培が盛んになった。リオ・グランデ・ヴァレーあるいは単にヴァレーと呼ばれるこの一帯に、日本人もテキサス州内から、あるいは西海岸などからやって来た。また、最初にこの地に入った日本人はもともとメキシコにもいた人物だった。

このなかに、「ヤマトコロニー ...

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テキサスに夢をみた100年前の日本人: 米作ブームを機に野菜栽培、そして油田も ~その3/4

その2を読む>>

山本五十六も2度訪れる

当初は米作にしぼり成功したが、のちに野菜作りに転換した。この間、日本人をはじめメキシコ系、アフリカ系、ヨーロッパ系の労働者も雇った。吉松氏はコロニーのために強いリーダーシップを発揮し、一方で地域にはさまざまな面で貢献しアメリカ社会に積極的に溶け込んでいった。

1924年には土地を提供してキリスト教の教会を建て、その運営にも私財を投じた。また、1928年にはコロニーの近くの学校に土地を譲渡している。彼自身は仏教を信仰していたが、子供たちにはアメリカで生活していく以上キリスト教を受け入れ、英語を学ぶべきだと考えていた。

1919(大正8)年、吉松氏が所有していた土地から石油が出ることが分かった。彼は「オレンジ石油会社」を設立した。このことを知って当時アメリカに留学中の山本五十六が ...

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