新舛與右衛門 ー 祖父が生きたシアトル ー

山口県長島の漁村からシアトルへ渡り理髪業で大成するも、不慮の事故で早世した新舛與右衛門。そんな祖父の人物像とシアトルでの軌跡を、定年退職後の筆者が追う。

*このシリーズは、シアトルのバイリンガルコミュニティ紙「北米報知」とディスカバーニッケイによる共同発行記事です。同記事は、筆者が日本大学通信教育部の史学専攻卒業論文として提出した「シアトル移民研究―新舛與右衛門の理髪業成功についての考察―」から一部を抜粋し、北米報知及びディスカバーニッケイ掲載向けに編集したものです

 

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第10回 無念の事故死と悲しみの帰国

前回は與右衛門を支えた日本人会と與右衛門がホテル開業を前にした日々の様子についてお伝えした。今回は、與右衛門の無念の事故死を遂げることをお話ししたい。

不慮の事故に遭遇

1928年12月2日、日曜日の朝。與右衛門は、自宅のニューセントラルホテル(地図右下)を出ていった。しばらく歩いてオクシデンタル街に購入したホテル(地図左)の見回りに行った。この日は翌日月曜日からのホテル開業を控え、準備しておかなくてはならないことがいくつかあった。與右衛門は、その頃には夜寝るのも遅く、少々疲れ気味だったが、ホテル開業という夢の実現が目の前に迫るうれしさで、その疲れを忘れてしまっていた。

與右衛門がホテルに着くと、新しい壁の塗装の匂いがした。そして2階の部屋の点検をしようと、階段をゆっくり上がり ...

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第9回 日本人会と最期の日々

前回は山口県からの移民と郷里送金のこと、與右衛門が蒲井に新築の家を建てたことをお伝えしたが、今回はシアトルで與右衛門を支えた日本人会と與右衛門の最期の日々についてお伝えしたい。


與右衛門を支えた日本人会

シアトルという異国の地で與右衛門が理髪業に成功し、更にホテル業へと飛躍できた背景には、日本人会という強力なコミュニティの存在があった。シアトルに居住する日本人は、1899年2月に日本人会を発足した。当初は個人会員制であったが、1907年に県人会や理髪業組合等の代表者が集まる組織としてワシントン州日本人会と改名した。1910年には別組織としてシヤトル日本人会が発足したが、1912年4月にワシントン州日本人会とシヤトル日本人会が合併して北米日本人会となった。

北米日本人会を含め、シアトル領事館管轄内には15の日本人会があったことが文献に残っている。1913年に発足した北米連絡日本人会は、シアトル領事館管轄内であったワシントン州東部、アラスカ州、アイダホ州、モンタナ州などのシアトル以外の地方にある日本人会を束ねる組織として形成され、1920年に米国西北部連絡日本人会と名称変更した。本部はシアトル市に所在し、各地方日本人会の代議員定数が定められ、運営された ...

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第8回 郷里送金と家の新築

前回は與右衛門のホテル業への飛躍についてお伝えしたが、今回は與右衛門の出身地、山口県についてと郷里送金、そして蒲井の家の新築の様子についてお伝えしたい。


山口県からの移民

與右衛門の出身県の山口県は全国的にも海外移民の多い県である。海外移住資料館史料の「都道府県別移住者統計」によると1885年から1894年、および1899年から1972年の間で山口県の海外移住者数は57,837人で、広島県109,893人、沖縄県89,424人、熊本県76,802人についで、全国4位になっている。

文献によると、山口県における1926年現在の海外在留者数は、玖珂(くが)郡が最も多く9,893人 ...

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第7回 ホテル業への飛躍

前回は、與右衛門の長男である與のシアトルでの教育についてお伝えした。今回は與右衛門の、理髪業から更に大きなビジネスであるホテル業への飛躍についてお伝えしたい。


理髪業からホテル業へ

與右衛門は、山口県蒲井からシアトルへ移住後、ワラワラに移り、理髪業を大成功させた。與右衛門は更なる飛躍を目指してシアトルに戻り、次のビジネスとしてホテルの開業を考えていた。ホテル業は当時のシアトル日本人のあこがれのビジネスでもあった。

シアトルに来た当初は、一稼ぎしたら日本へ帰ろうと考えていた與右衛門だが、與をシアトルへ呼び戻して家族3人で暮らすうちに、シアトルでの永住を考えるようになっていた。そのためには、理髪業よりもっと大きなビジネスに挑戦して、安定的に稼ぐ必要があった。

当時のシアトル日本人町の社会環境の変化も背景にある。シアトル日本人町は当初、日本から渡った多くの若い独身男性が支えていたが、排日移民法後の1920年代後半には独身者の移民は途絶えた。一方で ...

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第6回 與の教育 

前回は與右衛門がワラワラで営む理髪業の絶頂期についてお伝えした。今回は與右衛門のもう一つの課題であった、與の教育を取り上げることにする。

二世の教育

ビジネスの成功に加えて、與右衛門のもう一つの大きな課題は、長男である與の教育だった。與の名前は、與右衛門の一字をとって「すべてを與える」という意味で名付けた。娘二人は日本に残したが、長男の與はアメリカで教育したいという強い気持ちで日本から呼び寄せた。そのかわいがりようは尋常ではなかった。與右衛門はアメリカの地で與を教育して、自分の後を継いでもらいたいと思っていた。

シアトルでは、1912年頃から1920年まで続いた写真結婚により多くの日本人女性が渡米。次々に二世が誕生し、日本人家庭ができあがっていった。二世はアメリカに生まれたアメリカ人で、家では日本人の子供として一世の親と暮らすが、家を出ればアメリカ社会の文化に浸る時間が圧倒的に多かった。このため ...

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