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新舛與右衛門 ー 祖父が生きたシアトル ー

第8回 郷里送金と家の新築

與右衛門が建てた家の写真(2014年筆者撮影)

前回は與右衛門のホテル業への飛躍についてお伝えしたが、今回は與右衛門の出身地、山口県についてと郷里送金、そして蒲井の家の新築の様子についてお伝えしたい。


山口県からの移民

與右衛門の出身県の山口県は全国的にも海外移民の多い県である。海外移住資料館史料の「都道府県別移住者統計」によると1885年から1894年、および1899年から1972年の間で山口県の海外移住者数は57,837人で、広島県109,893人、沖縄県89,424人、熊本県76,802人についで、全国4位になっている。

文献によると、山口県における1926年現在の海外在留者数は、玖珂(くが)郡が最も多く9,893人、次いで大島郡が6,249人、與右衛門の出身地の熊毛(くまげ)郡が4,492人と山口県東部の三郡がきわだって多くなっている。

1926年頃の山口県東部地区の地図(文献等により筆者作成)

1926年の人口に対する海外在留者数の割合をみると、大島郡は人口が57,177人で移民率は10.9%で最も高い。次いで、玖珂郡が7.8%、熊毛郡が5.8%だった。

『上関町史』によると、與右衛門の生まれた熊毛郡蒲井ではアメリカへ28名、ハワイへ20名、その他地区、数名、計50名以上の人が海外渡航しており、当時の蒲井の推定人口400人位からすると、移民率は12%を超えていた。與右衛門の生まれた蒲井は山口県でも突出した移民の村だった。

このように特定の地域に移民者が集中したのは、当時の外務大臣、井上馨のような地元出身の大物政治家が移民を勧めた経緯があった。その後に続く人たちが先人を頼り、海外に行くことが慣習化され、同じ村の人たちを呼び寄せ、同じ村の人同士で結集していくという、当時の日本人の独特の慣習があったことが影響したと思われる。その結集が村や地域単位から、県単位に広がっていった。異郷の地、シアトルへ行き、そこで信頼できる同じ村、地域、県の出身者が集まり結束していった。シアトルに集まった日本人は、特に同県意識が高かった。

山口県人について1907年発刊の『北米ワシントン州日本人事情』では、「山口県人は一般的に勤勉で、何事も一生懸命とりくむところは、他の人たちより優れたものをもっている」と指摘している。

1917年5月19日の『大北日報』に山口県人の特色を「団結力の強い處は山口県、同県は門閥の本家だけあって確かである」と記している。

シアトルに移住した山口県人は広島県に次いで、いち早く1903年に山口県人会を発足した。1907年頃のシアトルにおける山口県人会の会員数は140名程だった。県人会は仕事の紹介や宿舎の提供、親睦や援助、身元の保証という実利的な側面から、移民社会にとって不可欠な存在となった。この山口県人会の規約には、同じ同郷の山口県人が困ったときはお互いに助け合おうという強い結束が明確に記載されている。

山口県人会の会長になったのが、大島郡出身の伊東忠三郎だった。伊東については第2回で紹介した。伊東という強力なリーダーが存在したことで、シアトルの理髪業が山口県出身者で占めることとなり、山口県人の凄まじい結束力につながった。與右衛門の理髪業の成功もこの結束力の賜物だった。


郷里送金

海外へ移住した多くの日本人は、海外で稼いだお金のほとんどを郷里に送金した。日本人は困窮した日本本土の家族へ送金することが第一義であった。

埴原正直がアメリカ大使に就く以前の1908年に在ワシントン日本大使館二等書記官としてアメリカ各地を視察した。その際の報告書には、「在米の日本移民が本国に送金する金額は最近一千万円以上に上り、国家の利益は莫大なものがあるから、渡米移民は大いに保護奨励しなければいけない」と記されていた。

シアトル住友銀行の新聞広告(シアトル週刊邦字新聞『労働』1937年5月25日)

1925年頃のシアトルには日本の銀行として住友銀行、日本商業銀行、米国東洋銀行などがあった。シアトルに渡った日本人はこれらの銀行に預金して財産形成を行い、そして多くのお金を郷里送金した。

日本人の郷里送金は、アメリカ側からみれば、排日の一つの原因ともなった。日本人はシアトルで稼いだお金を預金するか日本へ送金するかで、倹約生活で地元で消費することもなく、アメリカ社会にさっぱり還元してくれないというのがアメリカ側の言い分だった。『北米年鑑』1928年版によると、アジア地域を除く海外在留日本人の1925年の郷里送金総額は2,632万円(現在の価値で260億円程)だった。アメリカにいる日本人全体の1925年の郷里送金総額は1,414万円、アメリカにいた日本人の郷里送金額が全体の54%を占め、海外では一番多かった。

アメリカにいる日本人の郷里送金額合計1,414万円の内訳は、和歌山県307万円、岡山県205万円、広島県174万円、福岡県113万円、山口県99万円。郷里送金においても、山口県は全国で5番目に多い県となっている。

1925年、シアトル領事館の統括地域内では郷里送金額は420万円だった。この年の日本人人口が8,734人、本業者が3,157人いた。本業者一人当たりの送金額は約1,330円となる。(現在の価値130万円程)このような多額の郷里送金は日本人独特で、日本人は欧州移民と比較すると、郷里送金の割合が非常に多かった。

シアトルから日本へ送金するときは、シアトルにある住友銀行シアトル支店から郷里送金を行うことができた。窓口で送金額を為替相場によりドルから円に換算し、日本側の受取人を指定して、受付番号の入った「郷里送金領収証」が発行された。この金額と日付、受付番号を受取人に連絡し、山口県では住友銀行柳井支店でこれを受け取ることができた。

郷里送金領収書、1940年(シアトルにいた與が、帰国したアキへ送金した時のもの)

與(あたえ)がシアトル住友銀行から、日本にいたアキへ送金した1940年の「郷里送金領収証」が残されていた。與右衛門のいた1925年頃もほぼ同じ様式だったと推測される。

與右衛門は、シアトルで稼いだお金のほとんどを日本の実家の父、甚蔵宛で送金していた。甚蔵は與右衛門から送金の知らせがくると、柳井まで行く定期船に乗り、與右衛門からの送金を銀行へ受取に行った。この定期船は以前お伝えした運輸丸で、祝島(いわいしま)を朝5時にでて蒲井へ6時ころつくかつて運航されていたものだ。甚蔵はそれに乗り、柳井港には午後3時ころ到着した。甚蔵はこの船に乗るのが楽しみで、息子がこんなに稼いでくれることを誇らしく思った。


蒲井での家の新築

與右衛門の郷里送金の最大の目標は、蒲井の家の新築であった。與右衛門は、両親や弟妹達に立派な家に住んでもらえることが夢であった。それまで蒲井の実家は海に比較的近い場所にある粗末な家で、狭い家に家族全員が住んでいた。

蒲井の海の風景(2014年筆者撮影)

與右衛門がワラワラの理髪業で大成功していた1927年頃、蒲井の家の新築計画を父の甚蔵に伝えた。何度も與右衛門と甚蔵が手紙のやりとりをしながら、新築の家の設計を地元の一流の建築士に依頼した。家の木の材料はケヤキなどの超一級品を使用した。

1928年の春に蒲井の家の新築工事は開始された。新築の家は、海辺の村なので台風などの被害を少なくするために低くし、海からは離れた田んぼの中に作られた。当時、蒲井には猛烈な台風が頻繁に来て、海岸沿いの家はあわや海の荒波に飲み込まれるような場面が何度もあった。

家づくりの工事が始まり、田んぼに家のくい打ちが始まった。この時の基礎の大きさは、ほかの家ではみたことのない大規模なものだった。工事が進行し、家の形が見えてくると、村中の人がそのすごさに驚嘆した。村の人は毎日のようにこの建設の様子を見に来た。

廻り廊下がついた六畳の間が4つと台所、更に六畳の客部屋2つがある家で、その床柱は見たこともないほど巨大なものだった。

新舛家の庭(2014年筆者撮影)

庭には大きな池があり、いろいろな種類の石の灯篭が並んだ。燈篭の石はわざわざ本州から取り寄せ、船で運ばれた巨大なものであった。このような家を建てることは蒲井では異例のことで、蒲井一の「新舛御殿」であった。

1928年秋に家が完成すると、村では恒例の餅まきが行われ、家の屋根に甚蔵や與右衛門の弟達、親戚の人らが登り、集まった多くの村の人にまいた。村中の人がこの新舛御殿の完成に驚嘆し、歓声の声を上げた。幼少時に蒲井へ帰らされた、與右衛門の娘2人は、12歳と10歳の小学生でまだ幼かったので、毎日廊下を走り廻って喜んだ。

與右衛門は蒲井で新築の家が完成したことを甚蔵からの手紙で知り、安心した。しかし、與右衛門は自分が建てたこの家を見ることはできなかった。

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参考文献:
石川友紀『日本移民の地理学的研究―沖縄、広島、山口―』榕樹書林、1997年
ハリーH.L.キタノ;内崎以差味訳『アメリカの中の日本人』東洋経済新報社,1971年
石岡彦一『北米ワシントン州日本人事情』1907年
坂口満宏『日本人アメリカ移民史』不二出版、2001年

 

* このシリーズは、シアトルのバイリンガルコミュニティ紙『北米報知』とディスカバーニッケイによる共同発行記事です。同記事は、筆者が日本大学通信教育部の史学専攻卒業論文として提出した「シアトル移民研究―新舛與右衛門の理髪業成功についての考察―」から一部を抜粋し、北米報知及びディスカバーニッケイ掲載向けに編集したものです。

 

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このシリーズについて

山口県長島の漁村からシアトルへ渡り理髪業で大成するも、不慮の事故で早世した新舛與右衛門。そんな祖父の人物像とシアトルでの軌跡を、定年退職後の筆者が追う。

*このシリーズは、シアトルのバイリンガルコミュニティ紙「北米報知」とディスカバーニッケイによる共同発行記事です。同記事は、筆者が日本大学通信教育部の史学専攻卒業論文として提出した「シアトル移民研究―新舛與右衛門の理髪業成功についての考察―」から一部を抜粋し、北米報知及びディスカバーニッケイ掲載向けに編集したものです