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新舛與右衛門 ー 祖父が生きたシアトル ー

第2回 シアトルでの最初の仕事と生活

前回は、與右衛門の出身地である蒲井について、そして水夫に偽ってハワイ経由で1906年にシアトルへ上陸した與右衛門の船出について書いた。今回は、シアトル上陸から3年後に與右衛門が開業した理髪業について詳しく紹介したい。


シアトルの理髪業

與右衛門の長女で現在102歳の叔母によると、蒲井から渡米した多くの人達の最初の仕事はレストランやホテルの皿洗いであり、與右衛門もそんな仕事から始めたという。手持ちの金がなく、英語が全くできず、技術がなくてもできる仕事だ。朝早くから夜遅くまで立ったままで辛抱強く働きさえすれば、何とか最低限の生活をするだけのお金は稼ぐことができた。與右衛門は、その後に少ない資金で養豚業を手掛けることもした。とにかく稼げる仕事ならなりふり構わず、何でもやった。

そんな中で、與右衛門に転機が訪れる。ある人物に助けられ、1909年から新しい仕事として理髪業を始めることができたのだ。その人物は、同じ山口県で與右衛門が生まれた長島の隣の島、大島出身の伊東忠三郎。伊東はシアトル日本日系人会の会長や山口県人会の会長を歴任する、いわばシアトル日本人コミュニティーのリーダー格の人物だった。伊東が、理髪業を始めるためのトレーニングや経営手法などを與右衛門に授けた。叔母は、「大島に親切な人がいて、與右衛門を助けてくれた」と言っていた。

伊東は、同郷の山口県出身者を優先的に援助していた。この結果、シアトルでの理髪店の多くは山口県出身者で占められることになった。理髪業者の出身地は山口県が一番多く、福岡県、広島県が後に続いていた。当時は同県意識、同郷意識が非常に強い時代だった。

シアトルの日本人理髪店は1910年以降どんどん増えていき、「チョキンチョキンの床屋さん」としてシアトル日本人社会の名物となった。文献によれば、1916年にはシアトルで日本人経営の理髪店が76軒あり、1923年には118軒に達した。1916年のアメリカ西海岸他都市の日本人理髪店数は、ロサンゼルス76軒、バンクーバー34軒、サンフランシスコ28軒、タコマ21軒、ポートランド15軒。シアトルはロサンゼルスと同数ではあるが、日本人総人口を考慮すると理髪業の多さは抜きんでていた。

シアトル日本人理髪店軒数の推移。(出典:竹内幸次郎『米国西北部日本移民史』大北日報社、1929年。『大北日報』1916年4月1日~5日、1923年12月8日 。『北米年鑑』北米時事社1928年版。在米日本人会事蹟保存部編『在米日本人史』在米日本人会、1940年 。)

また、シアトルでの大きな特徴は、日本人以外に顧客層を広げていた点だ。客のほとんどがドイツやイタリアなど欧州系移民の中流階級白人層で、日本人専門店はわずかだった。日本人の理髪店は夫婦共稼ぎで、髭剃りは女性の役目。ソフトな指づかいと丁寧なサービスが人気の理由だった。

一人前の理髪師になるには、見習いから始まりライセンスを取得するまでにだいたい最低2年を要した。理髪業ライセンスを取得するためには州が実施する理髪試験を受験する必要があった。受験料として5ドル、外国人向け通訳料3ドル、手数料として50セントが必要であった。まず理髪業組合の予備試験があり、年一回の州による理髪試験があった。この試験に合格するとライセンスを取得することができ、ライセンス1枚に対して見習弟子1人を雇用することが許可された。

一方で、1900年頃から日系移民の数が急増すると、シアトルでも排日運動が沸き起こる。特に、日本人が白人社会で働くことに対する大きな抵抗があった。「日本人が勤勉に働きすぎて、アメリカ人の仕事の邪魔をする。しかも稼いだ金はすべて故郷に送金してしまう」というのが排日運動側の主張だった。

シアトル市内には、日本人以外の白人系経営の理髪店が1916年で325軒あり、これらの理髪店から日本人の理髪業を排除する機運が高まっていた。そんな中で、日本人の理髪店が白人系同業者と調和共存していくために、日本人理髪業組合が1907年に伊東を組合長として創立された。同組合は、白人系理髪業組合と話し合い、料金や操業時間を同じにするなどの協調体制をとった。組合総会には白人系理髪業組合の幹部を必ず招待し、常にその融和をはかった。新年宴会などには組合の家族全員が参加して、舞踊や福引などの余興をして組合員の強い結束を固めていた。このように、伊東を中心とする理髪業組合のリーダーシップの下で、多くの日本人の理髪業者が安心して働けることができる環境がシアトルにあったわけだ。

與右衛門の理髪業開業

『北米年鑑』1913年版に記録された、與右衛門と吉田の理髪業(吉田が古田に誤植)  

『米国西北部日本移民史』によると、與右衛門は蒲井出身の従弟である吉田龍之輔と一緒に1909年に理髪店をシアトルで開業した。北米時事社の『北米年鑑』1913年版に、この理髪店は「163Washington St; L 807」にあったと記録されている。また、外務省資料にこの理髪店の売上げが1914年に6000ドル(当時の日本円で約12000円、現在の日本円ではおよそ1200万円位に相当)あったという記録も残されていた。

なお、吉田龍之輔は、時代が下がった1972年に『ジム・吉田の二つの祖国(The two worlds of Jim Yoshida)』を出版して二重国籍を持つ自身の戦争体験を描いたジム・ヨシダの父親。同書には、吉田に関する記述もあり、ノンフィクション小説ながら筆者が当時の蒲井出身者の生活を知る上での資料の一つになった。

與右衛門が開業した頃、シアトルには蒲井から来た人が数人いた。彼らは結束してお互いの仕事を助け合った。與右衛門は自身の小さな手帳に手記を残していた。手記の最初の数頁に、蒲井出身の人との「頼母子(たのもし)」という金銭のやり取りが記載されていた。この「頼母子」は、限られた構成員が出資して、みんなで貸付金をローテーションさせる組織だ。

この手帳の表紙には数人の住所が書かれてあり、その中に伊東の住所も書かれており、與右衛門と伊東との関係を裏づけている。

與右衛門のその手帳の中には、当時の與右衛門のシアトルでの生活の心境を語った一文も残っていた。

「家鴨(あひる)は矢張(やは)り陸上より水の生活を好み、人は住み慣れぬ国よりは我が産まれた在所を慕い精神故、人情印象、何人も自己の将来を知る事能はず。天は人に其の初めを教へて続きを語らず」

新舛與右衛門の手帳に記された自筆手記。手帳は1916年製で、その頃のものと推定される。

アメリカでの生活がいかに大変であるかということ、そして故郷の蒲井にいる家族への思いが強く出ている。シアトルでの生活がなんとか軌道に乗り出した中での、自分の将来への不安が綴られている。

與右衛門の人柄につき、私が幼少のころ、與右衛門の弟と妹から聞いたことがある。弟は「兄はアメリカで必死に働き成功し、立派な家を建て、親思いの、兄弟思いの凄い人だった」と、いつも事あるごとに涙を流しながら話していた。一方、妹は「與右衛門は気の小さいところがあった。よく何か問題がおこると、おどおどしていた」と笑っていた。この相対する二つの話を聞き、私は與右衛門がとてつもない闘争心を持ちながらも、人の事を思う繊細な心の持ち主だと思った。

與右衛門はこの後、「写真結婚」により故郷の蒲井からよき伴侶を迎え、更にこの理髪業を発展拡大させていった。


参考文献:

『大北日報』1916年4月1~5日「沙都同胞職業調らべ」
『北米年鑑』北米時事社 1913年版
竹内幸次郎『米国西北部日本移民史』大北日報社 1929年

 

* このシリーズは、シアトルのバイリンガルコミュニティ紙『北米報知』とディスカバーニッケイによる共同発行記事です。同記事は、筆者が日本大学通信教育部の史学専攻卒業論文として提出した「シアトル移民研究―新舛與右衛門の理髪業成功についての考察―」から一部を抜粋し、北米報知及びディスカバーニッケイ掲載向けに編集したものです。日本語版は、2019年7月1日に『北米報知』に掲載されました。

 

© 2019 Ikuo Shinmasu

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このシリーズについて

山口県長島の漁村からシアトルへ渡り理髪業で大成するも、不慮の事故で早世した新舛與右衛門。そんな祖父の人物像とシアトルでの軌跡を、定年退職後の筆者が追う。

*このシリーズは、シアトルのバイリンガルコミュニティ紙「北米報知」とディスカバーニッケイによる共同発行記事です。同記事は、筆者が日本大学通信教育部の史学専攻卒業論文として提出した「シアトル移民研究―新舛與右衛門の理髪業成功についての考察―」から一部を抜粋し、北米報知及びディスカバーニッケイ掲載向けに編集したものです。

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