新舛 育雄

(しんます・いくお)

1950年、山口県熊毛郡上関町蒲井に生まれる。神戸の外資系企業、帝国酸素株式会社(現在の日本エア・リキード株式会社)で勤務の後、定年退職と同時に人生2度目の大学、日本大学通信教育部の史学専攻に入学。2018年に卒業後も、大学に通いながら多くの学友との交友をはかっている。神奈川県逗子市に妻、長男と暮らす。趣味は料理とカラオケ。

(2019年6月 更新)

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新舛與右衛門 ー 祖父が生きたシアトル ー

第8回 郷里送金と家の新築

前回は與右衛門のホテル業への飛躍についてお伝えしたが、今回は與右衛門の出身地、山口県についてと郷里送金、そして蒲井の家の新築の様子についてお伝えしたい。


山口県からの移民

與右衛門の出身県の山口県は全国的にも海外移民の多い県である。海外移住資料館史料の「都道府県別移住者統計」によると1885年から1894年、および1899年から1972年の間で山口県の海外移住者数は57,837人で、広島県109,893人、沖縄県89,424人、熊本県76,802人についで、全国4位になっている。

文献によると、山口県における1926年現在の海外在留者数は、玖珂(くが)郡が最も多く9,893人 ...

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新舛與右衛門 ー 祖父が生きたシアトル ー

第7回 ホテル業への飛躍

前回は、與右衛門の長男である與のシアトルでの教育についてお伝えした。今回は與右衛門の、理髪業から更に大きなビジネスであるホテル業への飛躍についてお伝えしたい。


理髪業からホテル業へ

與右衛門は、山口県蒲井からシアトルへ移住後、ワラワラに移り、理髪業を大成功させた。與右衛門は更なる飛躍を目指してシアトルに戻り、次のビジネスとしてホテルの開業を考えていた。ホテル業は当時のシアトル日本人のあこがれのビジネスでもあった。

シアトルに来た当初は、一稼ぎしたら日本へ帰ろうと考えていた與右衛門だが、與をシアトルへ呼び戻して家族3人で暮らすうちに、シアトルでの永住を考えるようになっていた。そのためには、理髪業よりもっと大きなビジネスに挑戦して、安定的に稼ぐ必要があった。

当時のシアトル日本人町の社会環境の変化も背景にある。シアトル日本人町は当初、日本から渡った多くの若い独身男性が支えていたが、排日移民法後の1920年代後半には独身者の移民は途絶えた。一方で ...

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新舛與右衛門 ー 祖父が生きたシアトル ー

第6回 與の教育 

前回は與右衛門がワラワラで営む理髪業の絶頂期についてお伝えした。今回は與右衛門のもう一つの課題であった、與の教育を取り上げることにする。

二世の教育

ビジネスの成功に加えて、與右衛門のもう一つの大きな課題は、長男である與の教育だった。與の名前は、與右衛門の一字をとって「すべてを與える」という意味で名付けた。娘二人は日本に残したが、長男の與はアメリカで教育したいという強い気持ちで日本から呼び寄せた。そのかわいがりようは尋常ではなかった。與右衛門はアメリカの地で與を教育して、自分の後を継いでもらいたいと思っていた。

シアトルでは、1912年頃から1920年まで続いた写真結婚により多くの日本人女性が渡米。次々に二世が誕生し、日本人家庭ができあがっていった。二世はアメリカに生まれたアメリカ人で、家では日本人の子供として一世の親と暮らすが、家を出ればアメリカ社会の文化に浸る時間が圧倒的に多かった。このため ...

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新舛與右衛門 ー 祖父が生きたシアトル ー

第5回 絶頂期の理髪業

前回は、シアトルで生まれた子供達が蒲井の與右衛門の両親の元へ預けられ、與だけ両親が働くシアトルへ呼び戻されたところまでを書いた。今回では、その後の與右衛門の理髪業の絶頂期について伝えたい。

シアトルからワラワラへ

1924年5月に長男の與を故郷から呼び戻した與右衛門は、しばらくシアトルにいた後、同年夏頃に郊外のワラワラ市に転居した。

シアトルでは狭いホテル暮らしであった。転居を決断したのは、家族でゆったり住めるマイホームを持ちたいと思ったからだった。ワシントン州東部のワラワラなら、シアトルから少し離れるが、マイホームを持つことができたようだ。

この当時のワラワラ市は、人口約1万5000人程度の小さな町だった。『北米年鑑』1928年版によると、ワラワラ市には與右衛門を含め13人の日本人が居住していた。居住者の名前と住所が記載されており、與右衛門の住所も「9 South ...

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新舛與右衛門 ー 祖父が生きたシアトル ー

第4回 子供達は日本へ 

前回は與右衛門の結婚後のシアトルでの家族と夫婦共稼ぎの理髪店の様子を紹介した。今回は、仕事の邪魔になると日本へ連れて帰られた與右衛門の子供達の蒲井での生活や與の再渡航についてお伝えしたい。


家族で日本帰国

1920年9月、與右衛門は家族全員で日本へ帰国した。帰国の目的は、子供達が理髪業の仕事の邪魔になるので、蒲井に残る與右衛門の両親に預けることであった。シアトルで生まれた子供達は、日本のことは何も知らなかった。当時の子供達の年齢は與6歳、長女4歳、次女2歳。長女で、現在102歳になる叔母が、後に與右衛門の手帳の空欄に書き残していた。

「私は1916年9月20日シアトルで生まれ、日本行き満4才1920年9月21日に行く」

叔母は、帰国時の心境を、「親は子供よりお金もうけの方が大事、両親は金の亡者だった」と語っていた ...

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