新舛 育雄

(しんます・いくお)

1950年、山口県熊毛郡上関町蒲井に生まれる。神戸の外資系企業、帝国酸素株式会社(現在の日本エア・リキード株式会社)で勤務の後、定年退職と同時に人生2度目の大学、日本大学通信教育部の史学専攻に入学。2018年に卒業後も、大学に通いながら多くの学友との交友をはかっている。神奈川県逗子市に妻、長男と暮らす。趣味は料理とカラオケ。

(2019年6月 更新)

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新舛與右衛門 ー 祖父が生きたシアトル ー

第3回 結婚と家族

與右衛門のシアトルでの独身時代を紹介した前回に続き、今回は與右衛門の結婚と結婚後の理髪店、そしてシアトルで誕生した子供たちについてお伝えしたい。

與右衛門の結婚と家族生活

1900年に入ったころからアメリカでは働きすぎる日本人に対して排日運動が激しくなり、日本政府はこれを緩和するため1908年に日米紳士協約を締結した。以後、労働者は日本へ自由に行き来できなくなったため、「錦衣帰郷(きんいききょう)」を夢みた短期的な出稼ぎから、その夢をあきらめてアメリカに定住せざるをえなくなっていった。当時の渡米者のほとんどは独身男性であり、生活が安定してくると日本に帰り配偶者を求めていた。しかし、日本への一時帰国が難しくなると、会うことなく交換した写真だけで結婚を決める「写真花嫁」のアメリカへの呼び寄せが激増した。

與右衛門も、シアトルでの生活が安定していき、結婚したいと思うようになった。蒲井から何枚か写真が届いた ...

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新舛與右衛門 ー 祖父が生きたシアトル ー

第2回 シアトルでの最初の仕事と生活

シアトルの理髪業

前回は、與右衛門の出身地である蒲井について、そして水夫に偽ってハワイ経由で1906年にシアトルへ上陸した與右衛門の船出について書いた。今回は、シアトル上陸から3年後に與右衛門が開業した理髪業について詳しく紹介したい。

與右衛門の長女で現在102歳の叔母によると、蒲井から渡米した多くの人達の最初の仕事はレストランやホテルの皿洗いであり、與右衛門もそんな仕事から始めたという。手持ちの金がなく、英語が全くできず、技術がなくてもできる仕事だ。朝早くから夜遅くまで立ったままで辛抱強く働きさえすれば、何とか最低限の生活をするだけのお金は稼ぐことができた。與右衛門は、その後に少ない資金で養豚業を手掛けることもした。とにかく稼げる仕事ならなりふり構わず、何でもやった。

そんな中で、與右衛門に転機が訪れる。ある人物に助けられ、1909年から新しい仕事として理髪業を始めることができたのだ。その人物は、同じ山口県で與右衛門が生まれた長島の隣の島 ...

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新舛與右衛門 ー 祖父が生きたシアトル ー

第1回 蒲井からシアトルへ

蒲井

山口県の上関町蒲井(かみのせきちょう・かまい)は、瀬戸内海にある長島という細長い島の南側に位置する海辺の村だ。現在は上関大橋で本土と陸続きになっているが、1960年代までは本土との橋もなく、交通手段は船だけ。当時、家屋約100軒、人口約400人程度の寒村だった。

筆者の生家には、90歳を超えた「おじいさん」の甚蔵(じんぞう)と祖母のアキがいた。てっきり二人は夫婦だと思っていたのだが、甚蔵は私の曾祖父だったと成長してから知った。祖母・アキの夫は、與右衛門(よえもん)という名で ...

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この筆者が寄稿しているシリーズ