新舛 育雄

(しんます・いくお)

山口県上関町出身。1974年に神戸所在の帝国酸素株式会社(現在の日本エア・リキード合同会社)に入社し、2015年定年退職。その後、日本大学通信教育部の史学専攻で祖父のシアトル移民について研究。卒業論文の一部を日英両言語で北米報知とディスカバーニッケイで「新舛與右衛門― 祖父が生きたシアトル」として連載した。神奈川県逗子市に妻、長男と暮らす。

(2021年8月 更新)

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『北米時事』から見るシアトル日系移民の歴史

第5回 領事への期待

前回は1919年の『北米時事』の記事「一日一人人いろいろ」で紹介されたシアトルの日系社会で活躍した人達について紹介した。今回は、1901年に設置されたシアトル領事館に派遣された数人の領事について紹介する。 * * * * * シアトル在留日本人の支えとなったのが、領事の存在だった。第1回で1901年にシアトルに領事館が設置されたことをお伝えしたが、それ以降1941年までに13人の領事(領事代理等除く)が日本政府からシアトルに派遣された。シアトル領事館はワシントン州、モンタナ州、アラスカ、アイダホ州の一部を管轄していた。 1917年から20年頃の記事 前回とりあげた1919年1月1日号のコラム「一日一人人いろいろ」の第1回で、高橋清一領事の後任として1917年から領事を務めた松永直吉氏が紹介されている。 「熱心で親切で、真二千石(しんにせんせき)を得たとなかなか評判がよいが、忌憚なく云えば、高橋領事が味噌をつけた後で誰が来ても持てはやされるとはいえ、彼は決して無能ではない。熱心に事務を執って、人に城府(じょうふ)を設けない。年は若いが有能である。佐賀県人通有性のせせこましい処がなく、落ち着いている。出世する人だろう」 松永領事は、在留民の福利増進、日米親善に努め、シアトル日系移民社会の発展を支えた。1920年3月に後任の領事、廣田守信氏にバトンを渡した。この…

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第4回 シアトルで活躍した人達

前回は1917年以降のシアトルでの日本人ビジネスの発展に関する記事を紹介したが、今回はシアトルで活躍した人達について紹介したい。 「一日一人人いろいろ」1919年 1919年1月から2月に渡り「一日一人人いろいろ」と題して発展したシアトルでいろいろな分野で活躍する人達の紹介が、毎日一人ずつ掲載されていた。各氏の功績、隠れた一面などがユーモラスに書かれている。この中からいくつかの記事を取りあげたい。 第5回 平出亀太郎(平出商店) [1919年1月8日号より] 「平出家に貰われて、横浜で大きくなり、ショートパンツで米国に来てから、ニューヨークの商業学校で学んだ。(中略)店も次第に広げられ、今日の繁昌は努力の結果だろう。みかけはボッチャンのようだが、焼いても煮ても食へないスマートな男だそうな」 この記事からすると、平出亀太郎はなかなかのやり手で、マネージメント能力の優れた人物と推察される。亀太郎は日本雑貨食料品を扱う平出商店を創業した倉之助(1892年渡米)の後をついだ人物である。亀太郎は、有馬純達『シアトル日刊邦字紙の100年』によると1924年シアトルで有馬純義・環の結婚媒酌人をつとめた。また1926年から北米日本人会長として活躍した。 第7回*注1 土倉四郎(横浜正金銀行シアトル新支店長) [1919年1月10日号より] 「シアトルの古参、工藤今次郎が…

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第3回 シアトルの発展と日本町の繁栄

前回は1890年頃にシアトルに渡り日本人元祖とよばれた森田万次郎と古屋政次郎についてお伝えした。今回は1917年以降のシアトルの著しい発展と、日本町の繁栄に関する記事を紹介したい。 シアトルの急速な発展 第一次世界大戦以降、シアトルは軍事産業や造船業が非常に繁栄し、貿易港として1917年以降著しい発展を遂げた。シアトル貿易額(輸出入額)は1912年から1916年までの4年間は米国内第9位だったが、1918年にニューヨークについで第2位に駆け上がり、太平洋沿岸ではサンフランシスコを凌いで第1位となった。 1919年6月16日号に、シアトル輸出入額が1914年が1億1000万ドルで、そこから急上昇し、1919年6月までの1年間の輸出入総額が5億8500万ドルと記録破りの数字になったことが記されている。この数字は外国貿易のみだが、太平洋沿岸各地、ハワイ、アラスカ、オレゴン、カリフォルニアなど国内輸出入額を加算すると11億2000万ドルに達した。1918年7月19日号に「シアトルがサンフランシスコを凌ぐ理由」として、次の点があげられていた。 「① 優れた港湾委員の存在。② 大戦時に地中海、スエズ運河閉鎖の頃に優れた港湾設備を持つシアトルが大きなチャンスを得た。③ 波止場と大埠頭の所有。 ④ 倉庫の整備。⑤波止場料の徴収。⑥ 港湾局による改造の実施」 筆者は、シア…

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第2回 シアトル日系移民の元祖

前回は1850年頃からの初期のシアトルの様子に関する記事についてお話ししたが、今回は1890年頃に日本人として初めてシアトルへ渡った、日本人元祖の記事についてお伝えしたい。 日本人ビジネスの元祖 1890年頃、日本人がシアトルに渡りいろいろな事業を開始した。これらの人達が、その後のシアトル日本人社会の基盤を作り上げていった。『北米年鑑』1928年版には、シアトル日本人諸事業営業の元祖として様々な事業を開始した人が紹介されている。その中に挙げられている森田万次郎と古屋政次郎が、『北米時事』紙面でもその偉大な功績について紹介されていた。 森田万次郎 1934年11月2日号に、森田万次郎が87歳で亡くなったとの訃報記事がある。森田はシアトルに住む日本人として、当時の最高齢だった。文献によると、鮭漁獲、雑貨店経営、旅館経営等でシアトル日本人ビジネスの先駆者と称されている人物だ。訃報にあわせて、森田万次郎の功績を振り返る記事が11月2日、6日、8日の3号に渡って掲載されているので、それらの記事を要約しながら紹介したい。 「森田万次郎が87歳の高齢にて昨日、コロンビア病院で肺炎のため死亡。 1851年5月15日兵庫県に生まれた。米国に初めて来たのは1873年だが、無旅券者だったため、上陸後まもなく送還させられ、しばらくハワイ王朝の通訳官となった。 1889年*40歳の頃…

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第1回 19世紀のシアトルと日系移民

『北米時事』は、シアトルで1902年から日米開戦まで発行されていた邦字新聞だ。ワシントン大学図書館でマイクロフィルム・アーカイブが保管されている。ワシントン大学東洋図書館司書のスコット・エドワード・ハリソン氏が2004年に同紙を調査研究し、現存する紙面がアーカイブされた。2019年6月から北米時事を前身とする『北米報知』とディスカバーニッケイで「新舛與右衛門―祖父が生きたシアトル」を日英両言語で連載した筆者は、同アーカイブがウェブサイト上で閲覧できることを知り、オンラインで読み始めるようになった。 アーカイブは1917年12月から1920年3月、1934年7月から8月、同年11月から12月、1935年10月、1937年11月から1940年3月までの発行号と限られた期間だが、その情報量は膨大だ。北米報知編集部によれば、太平洋戦争中の検閲や日系人強制収容で多くの紙面が破棄されたために紛失号が多々あるのだという。 アーカイブに残る最古の1917年12月14日号の第1面には、日本人商店、料理店、銀行などの広告が多く見られる。当時、シアトルに住む日本人のための大商店だった古屋商店の広告もある。年末の贈答品と正月用品が大きく掲載されており、奈良漬け、絹布類、漆器類、陶磁器、数の子、昆布類など日本を思わせる品々が並ぶ広告だ。記事のほとんどは、故国日本の記事と日本を取り巻く国際情勢の記事…

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