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新舛與右衛門 ー 祖父が生きたシアトル ー

第9回 日本人会と最期の日々

前回は山口県からの移民と郷里送金のこと、與右衛門が蒲井に新築の家を建てたことをお伝えしたが、今回はシアトルで與右衛門を支えた日本人会と與右衛門の最期の日々についてお伝えしたい。


與右衛門を支えた日本人会

シアトルという異国の地で與右衛門が理髪業に成功し、更にホテル業へと飛躍できた背景には、日本人会という強力なコミュニティの存在があった。シアトルに居住する日本人は、1899年2月に日本人会を発足した。当初は個人会員制であったが、1907年に県人会や理髪業組合等の代表者が集まる組織としてワシントン州日本人会と改名した。1910年には別組織としてシヤトル日本人会が発足したが、1912年4月にワシントン州日本人会とシヤトル日本人会が合併して北米日本人会となった。

北米日本人会を含め、シアトル領事館管轄内には15の日本人会があったことが文献に残っている。1913年に発足した北米連絡日本人会は、シアトル領事館管轄内であったワシントン州東部、アラスカ州、アイダホ州、モンタナ州などのシアトル以外の地方にある日本人会を束ねる組織として形成され、1920年に米国西北部連絡日本人会と名称変更した。本部はシアトル市に所在し、各地方日本人会の代議員定数が定められ、運営された。

1921年の記録によると、北米日本人会の会員数は5,453人で、当時のシアトル在住日本人9,066人の約6割が会員になっていた。シアトル領事館管内人口は18,401人で、そのうち何らかの日本人会に属していた人が9千人近く人いた。

米国西北部連絡日本人会の管轄下にあった1921年頃の15の日本人会。(*日本人会名、地名は現在のカタカナ表記に統一)

北米日本人会の目的は、当初は日本人相互の一致団結を図りその利益を増進するという内容だった。しかし、1924年に排日移民法が成立するなど北米で排日の気運が高まると、1926年には北米日本人会の目的規定に日米親善や、日本人のアメリカ社会での権利を増進することなどが追加され、「米化運動」と呼ばれるアメリカ社会との共存共栄を全面に掲げる方向へ向かった。シアトルの日本人移民社会は、日本の法律の規制や監督をうける地域ではなかった。

排日という厳しい環境にありつつ、アメリカ社会との共存をはかりながらシアトルに住む日本人によって運営されたのが日本人会だった。1921年には、排日土地法成立を阻止しようとする二世によって現在も日系アメリカ市民の政治活動の中心として続くJACL(Japanese American Citizenes League)が結成されたが、二世に向けてその結成を呼び掛けたのも北米日本人会の中心メンバーだった。

日本人会の運営財源として会員からの会費が充てられたが、その他の財源として証明保証料の分配金があった。当時のシアトル領事館は、シアトルに住む日本人の書類審査、身元保証の業務を各日本人会に委託しており、その報酬として手数料の一定額が各日本人会へ分配されていた。この分配金のおかげで、多くの日本人会の財源は潤沢だったようだ。この制度は1918年まで続いた。

1920年代以降は、「コミュニティチェスト」という シアトル市民全体の募金活動から還元される分配金が、新たな財源となった。 これは「米化運動」の一環でもあり、白人社会が運営するコミュニティチェストへ向けて日本人社会からも募金を集めて寄付することで、アメリカ社会の期待に沿う日本人像を示そうとした。文献によれば、1921年には6036ドルの募金を日本社会から集めてコミュニティチェストへ寄与した。1929年度には、2208ドル、1930年度には5124ドルの還元金を受け取ったとされる。

日本人会の主な活動は日常業務として、日本人の再渡航や呼び寄せに関する証明書類の作成、生活困窮者の救済、小児園や国語学校の運営、運動会や盆踊りなどの各種行事の主催、墓地の整備などであった。1902年に北米日本人会によって設立されたシアトル国語学校は、全米最古の日本語学校として現存している。理髪業組合、ホテル業組合などの実業組合、県人会などへの支援、また排日対策、二重国籍問題などシアトルの日本人移民社会全体におこるすべての諸問題の解決に総力を尽くした。日本人会は、日本とアメリカの境界に住む日系移民が生き延び道を切り開いていく環境を整えるべく、排日という非常に難しい環境の中で活動し、日系移民の生活を支えた。與右衛門も、この日本人会という強力なコミュニティに支えられて、数々の事業の成功を成し遂げることができたのだ。

北米日本人会を含める全ての日本人会は太平洋戦争開戦とその後の日系人強制収容で活動を一時停止したが、戦後1949年にそれらを受け継ぐ形でシアトル日系人会として再開し、現在もその活動を続けている。


北米日本人会会長、伊東忠三郎との繋がり

與右衛門の自筆の手帳(1916年製)

第2回でお伝えしたように、與右衛門は1916年制の小さな手帳を持っており、その手帳の最初のページに、與右衛門の知人の住所録が直筆で記されていた。その中央にある「C. Ito」は1928年に北米日本人会の会長、更に山口県人会長、理髪業組合長だった伊東忠三郎である。與右衛門に理髪業の道を開いたのは伊東だった。與右衛門がアキと結婚した時の仲人であり、一時帰国後の米国への再渡航時の保証人でもあった。

伊東は、1871年に山口県大島郡沖浦村に生まれた。この沖浦村が位置する大島は、與右衛門が生まれた蒲井のある長島のすぐ隣にある島だ。蒲井から一直線に14~15kmほどの対岸にある。與右衛門がシアトルで初めて伊東に会った際、隣の島の蒲井出身だということを伝えると、同郷の親近感を覚えた。

伊東は、シアトルの日本人会や理髪業組合等の創設と発展に多大の貢献をしたことで、1928年に「昭和大礼叙位叙勲」の勲四等瑞宝章を受賞した。この叙位叙勲内申書が国立公文書館に所蔵されていた。

伊東は1928年10月20日に日本へ一時帰国しており、そのことが『大北日報』で報じられていた。長期帰国の予定だったので、副会長の沖山栄繁に日本人会の会長代行を依頼していた。当時は、要人が帰国する時は送別会をしてシアトル港へ見送りに行くという慣習があったようだ。與右衛門は、忙しい最中にシアトル港へ伊東を見送りに行った。

伊東は、シアトル移住前には小学校校長を経験した教育家であり、真面目に努力する人間が好きだった。與右衛門の仕事への前向きな姿勢や情熱に対して、伊東は高い評価をしていた。シアトル港で伊東は與右衛門と硬い握手をし、與右衛門のこれまでの努力と成功を讃えた。しかし、これが伊東と與右衛門の最後の別れとなってしまった。

大島と長島の間の海の景色(2014年、筆者撮影)


與右衛門の最期の日々

與右衛門は1928年11月4日に44歳の誕生日を迎えた。この日は日曜日で、アキは自宅で與右衛門の好物の「ぼた餅」を作り、家族で誕生日を祝った。蒲井では「おはぎ」のことを「ぼた餅」と呼んで、誕生日に食べる習慣があった。アキはもち米と小豆を近くの日本人町の食料品店に買いに行った。誕生日の夜、一家三人で食べるぼた餅の味は格別だった。

アキの誕生日は12月23日、日曜日だった。與右衛門は、ここまでやり遂げたのはアキのお蔭だと感謝していた。そしてそのアキの誕生日には、骨休みにアキとどこか旅行へ行こうと考えていた。同じころ、蒲井からは新築の家が遂に完成したと、父、甚蔵からの手紙を受け取った。このところいいことばかりが続き、與右衛門の気分は爽快だった。

19歳のとき蒲井を出て行ってから、約25年間の歳月が過ぎていた。人生の半分以上を異国の地、シアトルで過ごしてきた。シアトルに来たばかりの時は、故郷の蒲井のことが懐かしくて、夜もよく寝られなかった。しかし、與右衛門は幾多の苦難を乗り越えて、シアトルで頑張った甲斐あって、大きな成功を納めることができた。

シアトルでの與右衛門最後の家族写真、1928(昭和3)年11月頃。アキ35歳、與14歳、與右衛門44歳。

與右衛門はこのあたりで家族写真をとっておこうと考えた。この時に撮影された與右衛門、アキ、與(あたえ)の家族写真は第1回でも掲載した写真だ。そして、これが與右衛門の死亡直前に撮影された最後の写真となった。この写真は、当時シアトル日本人町にあった「Aiko Studio」で撮影されており、写真の裏には長女の自筆で與右衛門44歳、アキ35歳、與14歳と書かれていた。與右衛門と家族の暖かい温もりを感じる写真だった。與右衛門の顔は成功者として達成感に満ち、実に堂々としていた。

しかし一方で、與右衛門はこのころから、めまいがするなど体調に不安を覚えるようになっていた。20年以上に渡る重労働と、周囲の人々に気を遣う心労も重なっていた。近くにいたアキは、與右衛門の調子が最近少しおかしいと感じるようになっていた。

1928年11月26日月曜日にシアトル横浜銀行から與右衛門への貸し出しを了承する連絡があった。與右衛門は、すぐに銀行へ行き、書類に借り入れ受領のサインをした。これでいよいよ、ホテル開業が現実のものとなった。

11月26日の週から、與右衛門はホテル開業の準備に入った。12月1日の土曜日まで、毎日業者に来てもらい、ホテル開業の工事をした。一階ロビーも受付や客が座るソファーも着々と整ってきた。そして12月3日月曜日の開店を目指して、12月1日の土曜日にはほぼ開業できる状態となった。

1928年12月2日は日曜日で、久しぶりに家族3人で朝食ができた。朝食の後、與右衛門は「ちょっとホテルを見に行ってくる。午前中には帰ってくる」と言い残し、ラフな格好で自宅を出ていった。與右衛門は、開業にあたり気になる所がまだあり、それを確認したかった。アキは、ここ最近の疲れが溜まっている與右衛門に、日曜日くらいは家でゆっくりと休んでほしいと思っていた。與も学校が休みなので、父親に学校の様子を話したいと思っていた。しかし、與右衛門はどうしてもホテルを見に行くと言って、朝、家を出ていった。そして、昼になってもなかなか帰って来なかった。アキは心配になった。


参考文献
坂口満宏『日本人アメリカ移民史』不二出版、2001年。
内閣、枢密院、外務省、内務省『昭和大礼叙位叙勲内申書』国立公文書館所蔵、1928年。
『北米年鑑』北米時事社、1928年版。

 

* このシリーズは、シアトルのバイリンガルコミュニティ紙『北米報知』とディスカバーニッケイによる共同発行記事です。同記事は、筆者が日本大学通信教育部の史学専攻卒業論文として提出した「シアトル移民研究―新舛與右衛門の理髪業成功についての考察―」から一部を抜粋し、北米報知及びディスカバーニッケイ掲載向けに編集したものです。

 

© 2020 Ikuo Shinmasu

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このシリーズについて

山口県長島の漁村からシアトルへ渡り理髪業で大成するも、不慮の事故で早世した新舛與右衛門。そんな祖父の人物像とシアトルでの軌跡を、定年退職後の筆者が追う。

*このシリーズは、シアトルのバイリンガルコミュニティ紙「北米報知」とディスカバーニッケイによる共同発行記事です。同記事は、筆者が日本大学通信教育部の史学専攻卒業論文として提出した「シアトル移民研究―新舛與右衛門の理髪業成功についての考察―」から一部を抜粋し、北米報知及びディスカバーニッケイ掲載向けに編集したものです