ジャーナルセクションを最大限にご活用いただくため、メインの言語をお選びください:
English 日本語 Español Português

ジャーナルセクションに新しい機能を追加しました。コメントなどeditor@DiscoverNikkei.orgまでお送りください。

新舛與右衛門 ー 祖父が生きたシアトル ー

第10回 無念の事故死と悲しみの帰国

前回は與右衛門を支えた日本人会と與右衛門がホテル開業を前にした日々の様子についてお伝えした。今回は、與右衛門の無念の事故死を遂げることをお話ししたい。

不慮の事故に遭遇

シアトル市街地地図(1977年)

1928年12月2日、日曜日の朝。與右衛門は、自宅のニューセントラルホテル(地図右下)を出ていった。しばらく歩いてオクシデンタル街に購入したホテル(地図左)の見回りに行った。この日は翌日月曜日からのホテル開業を控え、準備しておかなくてはならないことがいくつかあった。與右衛門は、その頃には夜寝るのも遅く、少々疲れ気味だったが、ホテル開業という夢の実現が目の前に迫るうれしさで、その疲れを忘れてしまっていた。

與右衛門がホテルに着くと、新しい壁の塗装の匂いがした。そして2階の部屋の点検をしようと、階段をゆっくり上がり、部屋にはいった。與右衛門は窓の開閉がうまくいかない所を見つけた。これを修理しようと思い、窓に昇った瞬間であった。與右衛門は思いもよらぬ事故に遭遇した。

突然めまいがして、足を踏み違い、誤って2階から道路へ落下した。與右衛門は落ちた勢いで足を骨折し、路上に倒れたまま意識を失った。この與右衛門の落ちた道は、日曜日ということもあり、人通りがほとんどなかった。しばらく誰も與右衛門の倒れた姿に気が付かなかった。

與右衛門を最初にみつけたのは、その道をたまたま歩いていた若いアメリカ人の男性だった。「日本人が倒れている!」と言って、すぐ近くの警察に連絡してくれた。警察官がかけつけ、與右衛門はすぐ近くのシアトル市の緊急病院へ運ばれた。與右衛門のもっていた書類から住所は判明した。すぐにアキへ連絡がきた。昼時を過ぎ、午後2時頃だった。アキは突然の知らせに、一瞬、何かの間違いではないかと思った。しかし警察官から所持品をみせられると確かに與右衛門に間違いなかった。

アキが病院にかけつけると、この時すでに與右衛門の意識は殆どなく、緊急病院は手当も不可能だとさじを投げる状態だった。病名は脳溢血だった。

その時、アキと一緒にかけつけてくれた蒲井出身の若い與右衛門の友人がいた。彼が自分の車で、総合病院であるシアトルゼネラル病院(地図右上)へ猛スピードで連れて行き、夕刻に到着した。病院では最新鋭の医療技術を駆使して治療した。懸命の治療を行い、アキは祈るような思いで看病した。與(あたえ)が、シアトルにいる親族や蒲井出身の知り合い全員に連絡した。大勢が病院に駆けつけた。家族や友人らが徹夜で病院の廊下の椅子にすわり與右衛門の奇跡の回復を祈った。

しかし懸命の治療にもかかわらず、與右衛門の容態はよくならず、翌日、12月3日朝10時にアキに見守られながら、與右衛門は帰らぬ人となった。與右衛門享年44歳だった。駆けつけた多くの人は、與右衛門の突然の事故死に大きなショックを受けた。そして「もし最初からこの大きな病院に行っていたら助かったのに」と悔やんだ。

この時の様子が1928年12月3日の『大北日報』夕刊に克明に掲載された。この記事の原稿が書かれていた朝はまだ與右衛門は病院で生死をさまよっていた。そして午前10時死亡とわかり、「遂に死亡」と一行、最後に書かれてあった。新聞社も與右衛門の容態の経過を懸命にフォローしていたのだった。

二階から街上に落つ 
-本朝十時死亡-

ニューセントラルホテルに妻子とともに住む山口県人、新舛與右衛門なる人はオクシデンタル街三一一に新たにホテルを買入その手入をなし新開業を営んでいたところ、昨日ウインドーから街上に飛び出し、重傷を負い、直ちに市病院に収容、手当を受けたが足は折れ、体内にも故障があるらしく目下重体である。市病院にて手当の上、友人の世話にてゼネラル病院に移され手厚き看護中であるが生命の程は合はれない。 

遂に死亡
以上の如く記〇〇〇朝十時死亡

『大北日報』1928年12月3日 與右衛門事故、死亡の記事、新舛與右衛門が新桝與右衛門に誤植


與右衛門の盛大な葬儀

翌日の12月4日の『大北日報』に、葬儀が5日午後2時からシアトル市内にある仏教会にて執り行なう記事が掲載された。この仏教会はシアトル日本人町に1901年に仏教青年会として創立され、1926年にシアトル仏教会と改称し1954年にシアトル別院に昇格した浄土真宗本願寺派のお寺で、現在もシアトル市内に存在している。

葬儀には、親戚、友人、山口県人会、理髪業組合など会場に溢れるばかりの人が参列した。北米日本人会副会長、ホテル組合議長の沖山栄繁、シアトル浸礼教会の星出惣吉、山口県人会会計の岡村正一などシアトルを代表する錚々たるメンバーもいた。與右衛門のシアトルでの人望の厚さ、活躍を物語る多くの人たちの参列だった。

この葬儀の日は、朝から雪交じりの寒い日だった。葬儀のあった午後は一段と雪が激しく降り、與右衛門が無念のあまり、天の上で泣いているような天気だった。

最も親しい関係であった北米日本人会長、山口県人会長、理髪業組合長の伊東忠三郎はこの葬儀のとき、日本へ帰国していたため、このことを知る由もなかった。当時の電信システムではこの與右衛門の死は伊東の元に届くのはかなり日がたってからだった。しばらくして與右衛門の死を知った帰国中の伊東は茫然とし、同郷の最も親しい子弟を失い大きな衝撃を受けた。

葬儀の最後に14歳の長男、與が親族代表で挨拶をした。この時の挨拶は日本語だったが、與にとって日本語を話すことは何の問題もなかった。與は少し緊張したが、悲しみを堪え、大勢の人の前で堂々と挨拶した。

與右衛門の死後

アキ35歳の時、1928年頃撮影

家を支えた夫に先立たれ、このシアトルの地でアキと與の二人きりにされてしまった。アキは與右衛門の仕事をずっと支えてきたが、家の大事なことは與右衛門がすべてやってきていた。アキにはしばらく混迷の日が続いた。アキが與右衛門がいつもすわっていた机に向かい引き出しの中をあけてみると、きちんと整理されたホテルに関わる契約書などがみつかった。

信頼できる多くの親戚、友人、ホテル業組合、山口県人会など多くの人達がアキを助けてくれ、アキは、年を明けた1月にはなんとかホテルを売却し、銀行からの借り入れも返すことができた。與右衛門の購入したホテルは建物も頑丈で、立地もよかったため、思ったより容易に買手がついた。ホテルの売却が何とか終わり、今度は1月末に與と一緒にシアトル公立学校へ行き、退学届けをだした。この退学届けが第6回でお伝えしたものだったのだ。

與は、多くの友人に別れの挨拶をした。シアトル公立学校へ転校して1年だったが、既に多くの友達ができており、別れることがとてもつらかった。これから日本へ帰るということだったので、これでもう一生会うこともないと思うと悲しみがこみ上げてきた。一番親しい男の友達は日本に帰っても手紙を送ると約束してくれた。後に與が日本に帰り、その男の子が1929年9月に家族写真をいれて、励ましの手紙をくれた。

1929年9月に與に送られたシアトル公立学校の友人の家族写真

これで與右衛門とその家族の17年間の長いシアトル生活に終止符が打たれた。

1929年2月6日にアキと與はアフリカ丸に乗り、蒲井へ向けてシアトルを発った。シアトルでは、親戚や友人の大勢が、アキと與の帰国を見送りにきてくれた。そして、アキの両手には與右衛門の遺骨があった。船が港から離れ、大勢の人が手を振ってくれた。だんだんそれが小さくなり、アキは與右衛門と一緒に頑張った理髪店のことを思いだした。與右衛門はこれでやっと蒲井に帰れると喜んでいるような気がした。

蒲井への悲しみの帰国

蒲井では、しばらくは誰も與右衛門の死を知らず、その年の正月を家族そろって與右衛門の建てた新築の家で迎えていた。元日の朝、家族の誰かが、仏壇に飾っていた橙(だいだい)が畳の上にころがり落ちていたのを見つけ不吉な予感がした。

正月を過ぎたある日、アキから甚蔵へ一通の手紙が突然届いた。甚蔵は疑心暗鬼にその手紙の封を開け、それを読んだ瞬間に気が遠くなり茫然とした。與右衛門が不慮の事故に遭い亡くなったと書かれてあった。甚蔵は、これは何かの間違いではないかと思いたかった。とても信じられなかった。家族へも伝えられ、與右衛門の弟姉妹がその大きな衝撃に打ちのめされた。與右衛門の死を知ったとき、皆は正月に仏壇の橙が落ちたのは、與右衛門の魂が先に正月に蒲井に帰ってきたのだと信じた。この與右衛門の死去の知らせは、蒲井中に知れわたり、村は悲しみにつつまれた。

1929年2月末にアキと與は與右衛門の遺骨をもって、シアトルから神戸に向かい、神戸から汽車に乗り、午後少し遅い時間に柳井についた。柳井からは特別の専用の小型船を頼み、蒲井まで行ってもらった。

與右衛門の蒲井の海岸に建てられた墓(2019年7月筆者撮影)

夜遅く、父親の甚蔵、母親のサヱ、弟姉妹、親戚、それに村中の人も海岸にでて、小型船の到着を待ちわびた。岬の先に明りをともした小型船が見えてくると、皆が声を上げようとしたが、悲しみのあまり声がでなかった。この小型船は與右衛門が最初にハワイへ行くために飛び乗った小型船によく似ていた。アキと與は與右衛門の遺骨を抱え、肩を落として小型船からフェリーに乗り移り上陸した。浜の船着き場まで迎えにきた父親の甚蔵と母親のサヱが泣きながら、代わる代わるに與右衛門の遺骨を抱き抱えて「よく帰ってきた」と語りかけながら、海岸沿いの道を歩いて家まで連れて帰った。與右衛門の建てた立派な家に入ってきたのは與右衛門の遺骨であった。蒲井にいた12歳と10歳になった娘二人は與右衛門の遺骨に出会った時、悲しみのあまり、母親のアキに抱き着いて泣き叫んだ。蒲井の村の人たちの悲しみの涙は海に流れるほどだった。

與右衛門の墓は、與右衛門が子供の頃に泳ぎ、そしてはじめてシアトルに向うために小型船に飛び乗った青い海が見える海岸近くに建てられた。墓には戒名が書かれ、横には「士 昭和三年十二月三日」と書かれた。
 

参考文献

Hompa Honganji Seattle Buddhist Church, Seattle Betsuin 75th Anniversary 1901-1976, November 1951. 

『北米年鑑』北米時事社、1928年

 

* このシリーズは、シアトルのバイリンガルコミュニティ紙『北米報知』とディスカバーニッケイによる共同発行記事です。同記事は、筆者が日本大学通信教育部の史学専攻卒業論文として提出した「シアトル移民研究―新舛與右衛門の理髪業成功についての考察―」から一部を抜粋し、北米報知及びディスカバーニッケイ掲載向けに編集したものです。

 

© 2020 Ikuo Shinmasu

Issei pre-war Seattle Washington Yamaguchi

このシリーズについて

山口県長島の漁村からシアトルへ渡り理髪業で大成するも、不慮の事故で早世した新舛與右衛門。そんな祖父の人物像とシアトルでの軌跡を、定年退職後の筆者が追う。

*このシリーズは、シアトルのバイリンガルコミュニティ紙「北米報知」とディスカバーニッケイによる共同発行記事です。同記事は、筆者が日本大学通信教育部の史学専攻卒業論文として提出した「シアトル移民研究―新舛與右衛門の理髪業成功についての考察―」から一部を抜粋し、北米報知及びディスカバーニッケイ掲載向けに編集したものです。

第1回から読む >>