新舛與右衛門 ー 祖父が生きたシアトル ー

山口県長島の漁村からシアトルへ渡り理髪業で大成するも、不慮の事故で早世した新舛與右衛門。そんな祖父の人物像とシアトルでの軌跡を、定年退職後の筆者が追う。

*このシリーズは、シアトルのバイリンガルコミュニティ紙「北米報知」とディスカバーニッケイによる共同発行記事です。同記事は、筆者が日本大学通信教育部の史学専攻卒業論文として提出した「シアトル移民研究―新舛與右衛門の理髪業成功についての考察―」から一部を抜粋し、北米報知及びディスカバーニッケイ掲載向けに編集したものです

 

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第7回 ホテル業への飛躍

前回は、與右衛門の長男である與のシアトルでの教育についてお伝えした。今回は與右衛門の、理髪業から更に大きなビジネスであるホテル業への飛躍についてお伝えしたい。


理髪業からホテル業へ

與右衛門は、山口県蒲井からシアトルへ移住後、ワラワラに移り、理髪業を大成功させた。與右衛門は更なる飛躍を目指してシアトルに戻り、次のビジネスとしてホテルの開業を考えていた。ホテル業は当時のシアトル日本人のあこがれのビジネスでもあった。

シアトルに来た当初は、一稼ぎしたら日本へ帰ろうと考えていた與右衛門だが、與(あたえ)をシアトルへ呼び戻して家族3人で暮らすうちに、シアトルでの永住を考えるようになっていた。そのためには、理髪業よりもっと大きなビジネスに挑戦して、安定的に稼ぐ必要があった。

当時のシアトル日本人町の社会環境の変化も背景にある。シアトル日本人町は当初、日本から渡った多くの若い独身男性が支えていたが ...

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第6回 與の教育 

前回は與右衛門がワラワラで営む理髪業の絶頂期についてお伝えした。今回は與右衛門のもう一つの課題であった、與(あたえ)の教育を取り上げることにする。

二世の教育

ビジネスの成功に加えて、與右衛門のもう一つの大きな課題は、長男である與の教育だった。與の名前は、與右衛門の一字をとって「すべてを與える」という意味で名付けた。娘二人は日本に残したが、長男の與はアメリカで教育したいという強い気持ちで日本から呼び寄せた。そのかわいがりようは尋常ではなかった。與右衛門はアメリカの地で與を教育して、自分の後を継いでもらいたいと思っていた。

シアトルでは、1912年頃から1920年まで続いた写真結婚により多くの日本人女性が渡米。次々に二世が誕生し、日本人家庭ができあがっていった。二世はアメリカに生まれたアメリカ人で、家では日本人の子供として一世の親と暮らすが ...

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第5回 絶頂期の理髪業

前回は、シアトルで生まれた子供達が蒲井の與右衛門の両親の元へ預けられ、與だけ両親が働くシアトルへ呼び戻されたところまでを書いた。今回では、その後の與右衛門の理髪業の絶頂期について伝えたい。

シアトルからワラワラへ

1924年5月に長男の與(あたえ)を故郷から呼び戻した與右衛門は、しばらくシアトルにいた後、同年夏頃に郊外のワラワラ市に転居した。

シアトルでは狭いホテル暮らしであった。転居を決断したのは、家族でゆったり住めるマイホームを持ちたいと思ったからだった。ワシントン州東部のワラワラなら、シアトルから少し離れるが、マイホームを持つことができたようだ。

この当時のワラワラ市は、人口約1万5000人程度の小さな町だった。『北米年鑑』1928年版によると、ワラワラ市には與右衛門を含め13人の日本人が居住していた。居住者の名前と住所が記載されており、與右衛門の住所も ...

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第4回 子供達は日本へ 

前回は與右衛門の結婚後のシアトルでの家族と夫婦共稼ぎの理髪店の様子を紹介した。今回は、仕事の邪魔になると日本へ連れて帰られた與右衛門の子供達の蒲井での生活や與の再渡航についてお伝えしたい。


家族で日本帰国

1920年9月、與右衛門は家族全員で日本へ帰国した。帰国の目的は、子供達が理髪業の仕事の邪魔になるので、蒲井に残る與右衛門の両親に預けることであった。シアトルで生まれた子供達は、日本のことは何も知らなかった。当時の子供達の年齢は與(あたえ)6歳、長女4歳、次女2歳。長女で、現在102歳になる叔母が、後に與右衛門の手帳の空欄に書き残していた。

「私は1916年9月20日シアトルで生まれ、日本行き満4才1920年9月21日に行く」

叔母は、帰国時の心境を、「親は子供よりお金もうけの方が大事 ...

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第3回 結婚と家族

與右衛門のシアトルでの独身時代を紹介した前回に続き、今回は與右衛門の結婚と結婚後の理髪店、そしてシアトルで誕生した子供たちについてお伝えしたい。

與右衛門の結婚と家族生活

1900年に入ったころからアメリカでは働きすぎる日本人に対して排日運動が激しくなり、日本政府はこれを緩和するため1908年に日米紳士協約を締結した。以後、労働者は日本へ自由に行き来できなくなったため、「錦衣帰郷(きんいききょう)」を夢みた短期的な出稼ぎから、その夢をあきらめてアメリカに定住せざるをえなくなっていった。当時の渡米者のほとんどは独身男性であり、生活が安定してくると日本に帰り配偶者を求めていた。しかし、日本への一時帰国が難しくなると、会うことなく交換した写真だけで結婚を決める「写真花嫁」のアメリカへの呼び寄せが激増した。

與右衛門も、シアトルでの生活が安定していき、結婚したいと思うようになった。蒲井から何枚か写真が届いた ...

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