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孤独な望郷 ~ フロリダ日系移民森上助次の手紙から

第24回 姪に諭す、結婚の7ヵ条

南フロリダの大和コロニーの一員として渡米、コロニー解体後もひとり最後まで現地にとどまり生涯を終えた森上助次は、戦後、夫(助次の弟)をなくした義理の妹一家にあてて手紙を書きつづける。実家を継いだ妹がなくなったこともあったのか、実家の資産の相続にかかわることも助次は心配する。さらに結婚前の姪には、独自の「7ヵ条」を示して諭す。交通事故に遭うといったアクシデントもあるが、ひきつづき造園に励んでいる。

* * * * *

〈夢の中で日本に帰る〉

1966年1月19日

美さん(義妹)、小包が一つ着きました。包は破損していましたが、中身はOK。久し振りに御馳走になります。こんなおいしい物がふんだんに食えるなんて、つい羨ましくなります。お餅はそのまま冷蔵庫に入れてあります。カビは削った。結構食べられると思います。

今度の小包は来るまで随分永くかかりました。11月12日京都を出て、12月11日桑港着、1月15日当地着。二か月かかったようです。いや、一寸待って下さい。少し永くかかり過ぎとるようだ。京都出は11月12日ではないようだ。どうも日本のマーク(郵便物の消印のマーク)は読んでいて解からぬのが多い。

どうしたことか、新年に入ってから余り夢を見ない。どうも心配事がある時に余計みるようだ。先日みたのは極つまらぬ物でした。

夢の中で、私は日本へ帰っていました。学校の行事でよく通った宮津の町を一人、トボトボ歩いていたら夜中でもないのに、誰一人居ない。自動車もない。音一つしない死の町である。私は宮津湾の方へ向かって歩き続けた。角を廻った刹那、三人の若者が昔の荷車の側でヒソヒソ話している。三人ともアメリカ人だ。荷車には未熟な水瓜のような物を10個ばかり積んでおり、一つが輪切りしてある。「こりゃなんだ」と聞くと、「パパイヤだ、新種で大変うまい」と言う。一切サンプルをくれたので、食おうとした刹那、朝の新聞が投げ込まれた音で目がさめた。たあいもない夢だが、この夢は何を意味するか。近頃見る夢はほとんどゴッチャで日本でもなし、アメリカでもない。言う事は英語だ。夢で昔の頃を思い出す。

明ちゃん(姪)の初夢は何だったか。今夜も冷える。ヒーターの側でこの手紙を書いた。さようなら。


〈交通事故に遭う〉

1966年3月25日

美さん、約束の首巻(注:マフラーのこと)、昨日うけ取りました。ありがとう。この冬にはまにあわなかったが、来年からは助かります。

桃の花は終わり、実は親指位の大きさになり、木苺も花盛りです。しかし寒く、夜間はヒーターが欲しい位です。寒がり屋の私、多分年のせいかも知れません。腕の具合もよくなったり、悪くなったりで中々、治りません。

ご覧のように字も思うように書けない有様です。一週間前、自動車事故で大損害を蒙りましたが、幸い負傷は免れました。昨今また気分がすぐれず畑に行っても思うように働けません。独身者の事とて何かと不自由ですが、親切な友達が近くにいるので、大いに助かります。

日本の桜と楓(紅葉)を数本植え付けました。桜の苗木は、日本から絶対に輸入できぬので皆こちら作りです。日本の黒松、楓、南天、茶の種子を蒔きました。黒松の外はまだ生へません。桜は吉野とボタンで、来年には大きくなる事と思います。皆さん、お大切に。


〈虫が好かぬものは避けること〉

1966年4月3日

明ちゃん、久し振りの手紙ありがとう。旧友が次々とお嫁に行く。幸福そうな彼らを見るあんたの気持ちはよく解るが、急いではならぬ。ゆっくりかまえて待つのが安全だ。而して宣伝は忘れてはならぬ。精神修養は大切だ。修養の足らぬ者には真の幸福は来ない。

結婚相手の選択につき、私の考えを書き添えて置く。好い候補者が見付かったら知らせてくれ。お手伝いする。候補者は多いほどよい。

助次が姪への手紙で書いた結婚の7ヵ条

(1)向こうの財産を余り当てにしない事。お金は魔物、何時、なくなるかも知れぬ。

(2)容貌、余り気に置かぬ事。好男子でなくても健康な者、悪い病気の血をひかぬ者。

(3)学歴は同学、或いはそれ以上の事。出来るだけ趣味共通の事。

(4)社交的でも、八方美人で余り口数の多い者は禍のもとだ。

(5)意志が強く一寸した失敗でもくじけぬ者、父親を見れば大抵想像がつく。

(6)一人息子で母親育ちでない事。

(7)正直でまじめな者。責任感が強ければ越した事はない。

書けばまだあるが、まずはこれ位にして置く。最後に一つ、肝心な事がある。それは、人間は感情の動物である事を忘れてはならぬ。相手が立派な者でも、虫が好かぬ者は避けた方がよい。

3月に入ったが、朝方はかなり冷える。気分は変わりはない。食欲はよし、よく眠れるが右腕が時々痛む。少し暑くなれば好くなると思う。今日は4月の3日、60年前のこの頃、日本をたった。青雲の志を抱いてと言えば聞こえはいいが実は3年辛抱し、小金を貯めて帰るつもりだった。それがどうだ。思った事は半分も出来ず、いまだグズグズして居る。しかし私はまだいい方で、中には食うにも困って国の厄介になっている者もかなりある。こうした古い一世も次々と死んで行く。

去る1月に入って間もない頃、入れ歯をなくした。畑で取り外してシャツのポケットに入れただけは憶えているが、全く見つからぬ。随分高価な入れ歯なので、まだ時々探していると先日、夢のなかで見つけた。私はまだ子供で故郷のドブでを漁している時、見つかったのだ。アメリカでなくした入れ歯を70年も前の日本で見つけるなんて、夢程、馬鹿馬鹿しいものはない。さようなら。

〈父の遺産について長男として助言〉

1966年4月×日

美さん、宮津の土地の事については再三、(弟に)手紙を書いた。廃嫡(注1)された私にはこれ以上、何も出来ぬ。

(注)廃嫡: 日本の「家制度」に代表されるようないわゆる前近代的な家族制度の下では、嫡子・総領が連綿と家督を継いでいくことが相続の基本形態だった。廃嫡とは、嫡子に対して、何らかの理由によりその権利を廃すること(もしくは嫡子側から見て、その権利が廃されること)を指す。助次は自分は家を捨てた身であるから「廃嫡された」と言っている。

ただ一つの方法は私の手紙を示して彼に処置をせまるより外ない。土地は父の遺産の一部である。何も遠慮する事はない。あんたはもっと強くならねばならぬ。人の鼻息ばかり気にしていては一生、頭は上がりっこない。

何と教えるか知らんが、明子の修養もよかろう。要は時代に適したものでなければならぬ。明子の方針は彼女自身の意思によるより外ない。他がこうせいと旧式な押し付けがましい事は考え物だ。

昨冬は希有な寒さで桃の花盛りの今日、夜などなおヒーターが欲しい。時々夜間25度(−4℃)、30度(−1℃)くらいまで下がり、氷結で農作物の被害は勿論、木に実ったオレンジ等も凍った。寒さに弱い私は何も出来ず、その上、左腕が曲がり切らなくなり、字も書けず、止む無くヒーターにかじりついていた。

知人から貰った古い外套があったので、外出時には大助かりだった。昨今少し温かくなり、腕の痛みも薄らいだので字も書けるようになった。今度は腰が痛み出し、思うように働けぬ。時々畔の間に寝転んで休むより外ない。今日も一知人がやって来て、私を見て吃驚していた。                    

年のせいか気ばかりあせって何一つ思うように行かぬ。「持って行けるものじゃなし」と友人は忠告してくれるが、始めた事は仕上げねば気が済まぬ。つい無理して苦しむのだ。


〈百英町の土地を市に渡し寄付〉

天国を信ぜぬ私には死後の事を心配する何物もないのだ。正直なところ、私はまだまだ死にたくない。10年も20年も生きたい。生きて今植えている果樹が育つのを見たい。人間が永遠に生きる事は出来ないかと時々真に思う。

きらめく空の星を眺める毎に、未来の世界があるように思われる。20年後か、50年後か。何時か解かる時が来る。それまで生きていたいとシミジミ思う。

昨年植えつけた100本ばかりの桃は、セイロン島の原産で、小粒だが味はよい。今、花盛りだが、早いのは実が、この位になっているいる(注:ペンで絵をかいて示す)。私は渡米する前、二本の桃を植え付けたが、そのうち6つほど実がなった。虫を防ぐ為に紙袋をかぶせた。紙袋は底抜けだったので米粒位のを毎日のぞきに行った。60年ばかり昔のことだ。あれが生きていればとシミジミ思う。

この度、正式に百英町(一英町は4反25歩)の土地を市に渡し寄付した。長い間お世話になったお礼の印です。これでひとまず、肩の荷が下りたような気がする。


〈人は人なり、私は私なり〉

池の廻りに植付ける為に日本から黒松と楓(紅葉)の種子を取り寄せて蒔いた。桜の種子は秋まで来ない。ユスラ梅も来る。南天と宇治茶も蒔いたが、まだ、生えぬ。私がこの年で、こんな事に一所懸命になっていると、お金儲けでおかしくなっている人達には馬鹿気た事に見えるでしょうが、持って生まれた性分だからしょうがない。これに越した喜びはないのです。

立派な家に住みピカピカするカーを乗り回し、あらゆるゼイタクをしている人達も幸福かも知れないが、陋屋に住み、粗食に甘んじ、泥まみれになって自然に親しむ者が最も幸福な者ではなかろうか。人は人なり。私は私なり。人のセンキ(疝気)を頭痛に病まぬ事です。


〈昔植えた檜はどうしたか〉

1966年5月20日

美さん、12日付のお手紙うけ取りました。土地証明書にある小字のヒヂリという地名は私の記憶にないが、多分、屋根と岡の田との間にある三枚の小さな段々畑だと思う。山林二ヵ所のうち、奥村には痩せた急傾斜の雑木林がある。大した価値はないが、他の方は谷底で地味もよく、私の渡米当時には杉や檜の大木が四、五十本もあり、私の植えつけた五十本程の檜も立派に育っていたが、60年後の今日、どうなったか。

多分、製材で切り倒されたことと思う。証明書面の評価額は僅か一万円余り。あんたの借金支払いの足しにはならぬが、売買価格はこれよりずっと多いと思う。信用ある土地売買周旋業者に尋ねられたらよい。あんたが地主になれば、年々、地租を払わねばならぬが田や畑からの借地料も入る訳である。

(父親からは)何等遺産の分配はない。遺産と名のつくのは今度、あんたが貰う僅かな不動産だけである。私の言う事は想像でも、また聞きでもない。余り僅かな遺産で貰いたくないなら断ればいい。あんたのご随意です。とも角、余り小さい事で気兼ねしたり心配したりしない事です。

私は相変わらず腰や足の痛みに悩まされていますが、毎日、畑へ出かけます。変な病気で、苦しくても休んではなりません。休んだら最後、病気は重くなるという随分損な病気です。

自動車事故でかなり大きな損害を蒙った上、一時(約1ヵ月余り)自動車運転の鑑札を取り上げられたので、畑の行来に随分苦しめられました。

(敬称略)

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© 2020 Ryusuke Kawai

family florida Sukeji Morikami yamato colony

このシリーズについて

20世紀初頭、フロリダ州南部に出現した日本人村大和コロニー。一農民として、また開拓者として、京都市の宮津から入植した森上助次(ジョージ・モリカミ)は、現在フロリダ州にある「モリカミ博物館・日本庭園」の基礎をつくった人物である。戦前にコロニーが解体、消滅したのちも現地に留まり、戦争を経てたったひとり農業をつづけた。最後は膨大な土地を寄付し地元にその名を残した彼は、生涯独身で日本に帰ることもなかったが、望郷の念のは人一倍で日本へ手紙を書きつづけた。なかでも亡き弟の妻や娘たち岡本一家とは頻繁に文通をした。会ったことはなかったが家族のように接し、現地の様子や思いを届けた。彼が残した手紙から、一世の記録として、その生涯と孤独な望郷の念をたどる。