はじめに〜大和コロニーと森上助次
20世紀のはじめ、アメリカ東海岸南部のフロリダ州に日本人が入植をはじめたという歴史がある。日本人の影など微塵もない南フロリダに「大和コロニー」として誕生した“日本人村”では、主にインテリや資産家がなどが野菜や果物づくりをはじめた。しかし、厳しい自然条件などによって継続できず、戦前に姿を消してしまった。
そのなかで、最後まで残ったの男がいた。森上助次である。彼は所有していた広大な土地を、生前地元に寄付。この土地がもとになってのちに、ザ・モリカミ・ミュージアム&ジャパニーズ・ガーデンズ(The Morikkami Museum & Japanese Gardens)という日本庭園と日本文化を紹介する施設が誕生した。
生涯独身、一度も日本へ帰ることのなかった助次は、生前多くの手紙を日本にいる親戚や知人に送った。なかでも戦時中に亡くなった弟の妻と娘たちとは、頻繁に手紙のやり取りをした。日々の生活について、日本やアメリカについて、そして、まるで自分の家族のように思い続けた相手に対して、時に望郷の念をにじませながら心中を吐露している。
これらの膨大な手紙のうち、戦後になってからの手紙を、史実をもとに再構成して紹介するかたちで、ひとりの日系アメリカ人一世の生涯と望郷の気持ちをたどってみたい。が、その前に、コロニーと助次について簡単な説明をしておこう。
大和コロニーは、19世紀末からはじまったフロリダ開発がすすむなか、当時、ニューヨーク大学に留学中で、京都府宮津市出身の酒井醸の発案によって、フロリダ州南部のボカラトンにつくられた。宮津周辺の日本人や在米の日本人有志らが参加し、のべ140人ほどがこの地域でパイナップルやトマトなどの野菜作りに従事した。しかし戦前に解散、森上助次をはじめ数人が残るだけとなった。
森上助次は、1886(明治19)年、11月5日、天橋立で知られる宮津市で生まれる。コロニーのスポンサーでもある酒井の義兄、沖光三郎に渡航費用などを借り、3年働けばボーナスをもらえるという約束で一農民として入植した。しかし沖は間もなく現地で亡くなり、約束は反故に。以後、助次はパイナップルや野菜を作り、販売する一方で少しずつ土地を買い集めた。大金を手にしたかと思えば破産したり大病を患ったりすることもあった。生活は極めて質素で、晩年はトレーラーハウスを住まいとした。1976年2月29日79歳でこの世を去った。
残された手紙は1950年からのもの。戦時中に亡くなった弟、米治の妻、岡本みつゑには、二男二女がいたが、手紙は、みつゑや二人の娘に宛てて、助次が亡くなる直前まで送られた。このほか、親族などにも送られた手紙が一部残っている。
参考:「大和コロニー〜フロリダに『日本』を残した男たち」
(川井龍介著、旬報社)
* * * * *
第1回 1906年、8千里のひとり旅
1950(昭和25)年5月×日、岡本みつゑさんへ
私はちょうどいま、タウンから帰宅したところです。ちょうど宵の9時過ぎ。あなたに手紙を書くことにしましょう。
今日も黒人3人と終日、茄子の摘み取りに追われていました。全部で百箱近く、重さにすると約500斤(※約300キロ)くらいを、アメリカの北部の市場へ汽車とトラックで出荷しました。汽車というのは、フロリダの太平洋岸を走る、フロリダ・イースト・レイルウェイという長い鉄道を走るものです。相場はいま余りよくありません。
フロリダも大分夏らしくなりました。室内温度は華氏90度(※32℃)近くです。しかし夜は75度(※24℃)くらいまで下がります。温度は高くても大陸的な暑さでなく、昼夜通して涼しい風が大西洋から吹くので、私など、日中はほとんど裸で帽子もかぶらず、終日働きます。
話がつい横道へそれました。永い間、日本語を話さず、日本語を書かないので手紙を書くのに骨が折れます。読みにくい事と思います。このあと約2週間もすれば、少し暇になりますからボツボツ私の一生の懺悔録でも打ち明けましょう。
早、今年も5月となりました。思い起こせば、1906年の5月4日の夜の9時15分、当地に着きました。あれから45年といえば随分とながいようですが、見るもの聞くものわからず、話すことはまったくできない8千里(※約3万キロ)の一人旅でした。当時のことを回想すると、全く感慨無量のほかありません。
近ごろ、また世の中、物騒となりました。米国でも今にも戦争が始まるかのような騒ぎ方です。第3次世界戦争勃発の場合、日本の立場が思いやられます。あなた達を当国へ呼び寄せる事が出来たらいいなと思います。我々、在米の同胞も帰化権を与えられるのもそう遠くはありません。そうなれば、すべてが容易になります。
ご依頼のあった品物をシカゴの信用あるメールオーダーハウスに注文しました。
(敬称略、※は筆者注)