ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/979/

人々の考えを改めさせたジョン・タテイシ氏の役割り(英語)

(英語)僕は、ジョン・タテイシ氏の貢献を非常に高く評価しているのですが、彼は、しかるべき評価を受けていないと強く思います。他の人たちは、彼がしてくれたいくつかのことを当然であるかのように受け止めているのです。彼は、それを自分の役割りと考えてはいましたが、補償運動を支持しなかった、特に二世の意識を変えさせるために彼の仕事が実際どんなに効果的であったか、人々は忘れてしまっていると思います。

彼の狙いは、焦点を金銭問題から憲法問題へと変えることにあり、彼はそれをとてもよくやり遂げました。僕は、かつて補償に反対していた多くの裕福な農家が彼に歩み寄り、握手をし、「考えを改めました。補償運動をサポートしますよ」と言うのを見てきました。この出来事は、補償を恐れる二世の考えを改めさせるのにジョンの仕事が有効だったことを証明していると思うのです。

二世の人々に、たとえ困難でも自ら進んで参加し、共に戦かおうと思わせたのは、ジョンだと僕は思っています。それはジョンの貢献でしたし、やはり彼は補償運動にとても大きな影響を与えたと思うのです。


リドレス運動

日付: 1998年7月1・2日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: ミッチェル・マキ、ダーシー・イキ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

クリフォード・ウエダ氏は、1917年1月14日、ワシントン州オリンピアの牡蠣養殖業者の家庭に生まれました。1941年から1945年にかけてウィスコンシン大学で学び、その後、ルイジアナ州ニューオーリンズのチュレーン大学医学部に進学しました。ウエダ氏は、カリフォルニア州サンフランシスコで医師となりました。

ウエダ氏が日系アメリカ人市民同盟で活動を始めたのは、1960年にサンフランシスコ支部で一世のオーラル・ヒストリー・プロジェクトの座長を務めたことがきっかけでした。ウエダ氏は、サンフランシスコ州立大学でエスニック・スタディーズの専門学部の立ち上げに貢献した他、「東京ローズ」として知られるアイバ・トグリ氏が、大統領恩赦を得てアメリカ国籍を回復するための支援者のひとりとして、重要な役割を果たしました。

1975年、医師を引退したウエダ氏は、フルタイムの活動家に転身しました。1977年、ウエダ氏は、全米JACLの代表として日系人強制収容に対する賠償運動に参加し、1978年から1980にはJACL会長となりました。様々な役割を通してコミュニティに貢献してきたウエダ氏は、2004年、84歳で癌のため亡くなりました。(2008年4月11日)

ウィリアム・マルタニ

補償金辞退の道理(英語)

CWRICに関わった唯一の日系判事

フランク・エミ

「しかたがない」意識を超えて (英語)

徴兵忌避者。ハート・マウンテンのフェア・プレイコミティのひとり(1916-2010)

ウィリアム・ホウリ

訴訟を行うことで人権回復のための基準を設定(英語)

政治活動家(1927-2010)

ウィリアム・ホウリ

信頼を得るためにしてきたこと(英語)

政治活動家(1927-2010)

ノーマン・ヨシオ・ミネタ

初期の戦時民間人転住勾留委員会(CWRIC) (英語)

アメリカ合衆国元運輸長官(1931年生)

ノーマン・ヨシオ・ミネタ

法案442 (英語)

アメリカ合衆国元運輸長官(1931年生)

ノーマン・ヨシオ・ミネタ

最後のハードル、レーガン大統領 (英語)

アメリカ合衆国元運輸長官(1931年生)

ジミー・ムラカミ

補償金について(英語)

(1933-2014) 日系アメリカ人アニメーター

カズム・ナガヌマ

彼の妹は家族のために賠償金を確保した

クリスタル・シティに収容された日系ペルー人(1942年生)