ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1308/

戦後の学校生活(英語)

(英語)終戦の頃には、私たちはすぐに受け入れてもらえるようになりました。オクラホマやメキシコの子供たちも増えていたからです。つまり、基本的に白人のみ、という環境ではなくなっていたので、行動しやすくなっていました。それに、私は何でもかんでもやりたがるタイプではありませんでした。リーダーシップをとるポジションにいました。先生と一緒に演劇部を作り、脚本を書き、小さいこども達と一緒に活動しました。しかも私は、厚かましくも市役所に行き、子供たちと夏の演劇会を開催することを宣言し、実行していました。相当肝が据わってないとできないようなことをたくさんやりましたが、でもなぜか…。よくわかりませんが、自分が彼らよりも優れているということを他の人たちに認めさせたい、というようなところが私にはありました。言葉にするとたちが悪く聞こえるかもしれません。でも、どういうわけか、当時の私にはそういうことができました。


コミュニティ アイデンティティ 戦後 第二次世界大戦

日付: 2012年8月27日

場所: 米国、ワシントン州

インタビュアー: シンディ・ナカムラ、エミリー・アンダーソン

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター,ニットータイヤ「Life History Project」の協力。南カリフォルニア大学「Hapa Japan Database Project」による提供。

語り手のプロフィール

テリー・ジャンゼン氏は、1930年7月15日、東京で生まれました。ジャンゼン氏は日本人のハーフで、日本と米国両方で育ちました。第二次大戦中、彼女はポストンの強制収容所に6ヶ月間収容されました。その後、彼女は教員となり、ワシントン州アダムス郡民主党委員会の議長も務めました。 (2013年4月 更新)


*シンディ・ナカムラ氏とエミリーアンダーソン氏によるこのインタビューは、展示「Visible & Invisible: A Hapa Japanese American History」(目立つ、目立たない:日系アメリカ人“ハパ”の歴史)のために行われました。この展示は、南カリフォルニア大学による「Hapa Japan Database Project」との共催により、ニットータイヤ「Life History Project」の協力を得て開催されています。撮影はエヴァン・コダニ氏。

タカヨ・フィッシャー

戦後の米国で人種的に自分が何者なのか混乱(英語)

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サブリナ・シズエ・マケナ

カミングアウトが家族に与えた影響

(1957年生まれ) ハワイ州最高裁判所判事。