ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1273/

『Gidra』の制作 (英語)

(英語) きっちりと分業でやっていたわけではありません。能力に差が出るもの、特にイラストなんかは、非常に専門的な仕事になっていました。でも新聞の制作、つまり記事を受け入れて、フォーマットに入力し、コラムを作り出し、校正、添削をし、ライトボックスの上でチェックをし、それらを再びまとめ、ページレイアウトを考える。こういったことはみんながやっていました。

想像するのは難しいと思いますが、『Gidra』を見ればわかりますよ。ページによっては、出来が非常に悪いですから。

黒いテープに夢中の人もいました。彼らは黒テープをあちこちに貼って、デザインを作ったのです。それもまた、その時代の特徴のひとつでした。「何かをやるのにプロである必要はない。ただ挑戦してみろ」、というような。そういった気持ちがたくさんありました。『Gidra』はそれを実践したのです。


新聞

日付: 2011年9月28日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: クリス・クロミツ、ジョン・エサキ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

エヴェリン・ヨシムラ氏は、家族が第二次世界大戦の強制収容所があったアリゾナ州ポストンから移り住んだ場所、デンバーで生まれました。そしてまだ子供のうちに、ロサンゼルスのCrenshaw地区に移りました。1960年代の激動の公民権運動時代に主に黒人社会で育ち、1965年のワッツ暴動を直に目撃します。ドーシー高校卒業後、エヴェリンはカリフォルニア州立大学へ進学し、設立したばかりのアジア系アメリカ人研究プログラムの発展に貢献。この期間中、彼女は二十年にわたるリトル・トーキョーの文化的施設やアメラジアン・ブックストアの創設者の一人であり、『Gidra』のスタッフメンバーでした。『Gidra』は、挑発的なジャーナリズムの混合、グラフィック・アート、社会的・文化的・政治的事実を特集した革新的なアジア系アメリカ人の出版物です。

エヴェリンはリドレス・キャンペーンで活躍し、1981年に行われた一般人の戦時再配置及び収容に関する委員会のロサンゼルス公聴会のための重要なコミュニティ・オーガナイザーを務めました。現在は、LTSC (Little Tokyo Service Center) のコミュニティ・オーガナイジング・ディレクターです。2001年9月11日以降、エヴェリンはLTSCで、アラブ系アメリカ人とイスラム教徒の社会とのつながりの構築をはじめとした多くのプロジェクトに取り組んできました。(2012年8月)

 

ヘンリー・シミズ

大戦中カナダ政府の許可を持って出版した邦字新聞 (英語)

医者。日系カナダ人リドレス基金の元会長。(1928年生)

ロバート・ナカムラ

突然の悟り (英語)

映画プロデューサー(1936年生)

マイク・ムラセ

「ギドラ」という名前の由来(英語)

コミュニティ・アクティビスト

マイク・ムラセ

苦闘と運動(英語)

コミュニティ・アクティビスト

マイク・ムラセ

「ギドラ」の編集過程(英語)

コミュニティ・アクティビスト

マイク・ムラセ

コミュニティ新聞としての「ギドラ」(英語)

コミュニティ・アクティビスト

マイク・ムラセ

「ギドラ」のコラボレーション(英語)

コミュニティ・アクティビスト

マイク・ムラセ

共通の目的(英語)

コミュニティ・アクティビスト

マイク・ムラセ

「ギドラ」の貢献(英語)

コミュニティ・アクティビスト

マイク・ムラセ

「ギドラ」の内容(英語)

コミュニティ・アクティビスト

マイク・ムラセ

掲載内容に関する論争(英語)

コミュニティ・アクティビスト

マイク・ムラセ

強制収容について(英語)

コミュニティ・アクティビスト

マイク・ムラセ

Cincip(英語)

コミュニティ・アクティビスト

マイク・ムラセ

スタッフと苦闘(英語)

コミュニティ・アクティビスト